4日目。
何も見えない暗闇の中、私は独り目が覚めた。
ふと腕時計を確認すれば、時刻は3時半を回って4時前といったところ。
どうやら少し早く起きてしまったようだ。
さて、どうしようかと考える。
発光機能がある腕時計はともかく、隣のマンちゃんの顔すら見えないのだから
当然ライトは見つからない。
かと言って二度寝するには時間が心許ない。
悩んだ私は、とりあえず目を瞑ることにした。
思えば、こうして1人穏やかな時間を過ごしたのはいつぶりだろうか。
合宿では常に誰かといたからか、どうにも新鮮に感じる。
誰も起きていないのだから物音1つしないだろうと思いきや、
意外にもテント内は様々な音で溢れていた。
鳥の囀りや川のせせらぎ、誰かの身じろぎ、寝息、いびき、歯ぎしり、もしかしたら寝言もあったかもしれない。
私は音の原因を推理して時間を潰した。
結果、いびきはマンちゃん、歯ぎしりはてっちゃんだと断定した。
携帯のアラームと共にメンバーが起き出す。
寝起きのマンちゃんと目が合った。いたいけな瞳だ。私は柿の種を思い出した。
既に覚醒していた私は手早く身支度を整えた。上着を羽織り、ライトを装着し、朝食のためにココアの粉とワッフルとそしてヘッドを持って外へ出る。
外はまだ薄暗く、空には北極星が静かにまたたいていた。
ふと遠くを見やると、昨日登った山の頂上に雲が帽子のように被さっている。
なるほど、これが笠雲か。私はその見慣れない光景に幸先の良さを感じた。因みに笠雲が雨の予兆であるという話は後から知った。
この日の朝食はココアにワッフルというちょっとエレガントな献立だったが、それでも手間は然程掛からない。早々と食事を済ませた私たちは準備運動もそこそこに出発することにした。
陽は未だ上りきっておらず、時折吹く寒風が寝起きの頭を冷まして行く。
今日の山行は少し危険なルートだそうだから、気を引き締めなければいけない。時間と共に高まるテンションの中、私は頭の片隅でそう思った。
昨日とは違うポイントを目指すとはいえ、途中までは同じ道だ。と言っても昨日の帰り道を逆行する形なので、退屈かと言われればそんなことはない。
昨日は疲労困憊だったこともあり、あまり景色を見る余裕が無かったが、こうしてゆっくりと登ってみるとなかなかどうして面白いものだ。
明らかに今咲き出した蕾にホームセンターにでも売っていそうな立派な苔。岩場に広がる緑が朝日と合わさって私たちの目を楽しませる。
みんなの気分も高揚しているのか、休憩時には静かな山道がシャッター音に包まれた。こころなしか皆んなの笑顔もM先生の額もいつもより輝いて見える。H先生は言うに及ばずだ。
昨日の帰り道だった峠を越え、いよいよ新たなルートの攻略へと乗り出す。
遠くに見える劔御前は相も変わらずの霊峰感だ。常に雲が山頂付近に溜まっているのは一体どういう仕組みなのだろうか。あまりお見せできない思考が脳内を駆け巡った。
今思えば、この峠を越えた辺りから兆候はあったのかもしれない。
あれは劔沢キャンプ場へと続く岩場を軽快な足取りで下っていた時のことだ。
ヤツは突然現れた。
それまではヤツが来るだなんて夢にも思わなかったし、事実雷鳥沢キャンプ場で乱数調整は済ませていた。
だから、ヤツがエンカウントしたのは本当に予想外だった。
古来より人類の天敵にして生物の隣人的存在。
そう、下り龍だ。
私は焦った。この下り龍は土属性ではない、水属性だと。腹が発するアラームが私に現実を突きつける。
一体なにが原因だ。今朝の寒風が腹に響いたか。それとも寝苦しいからとシュラフから上半身を出していたのがまずかったか。
様々な憶測が脳内を飛び交い、しかし下り龍の猛攻が否が応でも理性のリソースを割いていく。
これはいけない、と本能が警鐘をかき鳴らす。
このままでは長閑な山道が一瞬にして悲劇の惨状を呈してしまう。
過酷な運命から目をそらすために、私は空想世界への逃避行を試みる。
だが、下り龍はそんな些細な抵抗をも嘲笑うかのように腸内環境を蹂躙する。
私は腹を決めた。逃げていてはいずれ追いつかれる。ならば、玉砕覚悟でこの下り龍を乗りこなしてみせようと。
ーー次のトイレがお前の墓場だ。
私とヤツのシーソーゲームが始まった。
腹を下り龍に食い破られながらも、表面上は平気な顔をする。
ちょっと無表情だったり口数が少なかったかもしれないが、深刻そうには見えなかっただろう。
下り龍と格闘している内に、段々と行動パターンが読めてきた。こいつは一定周期で腹を揺らす波状攻撃を得意としており、逆に言えばその波の後には小さいながらもクールタイムが存在するのである。つまり、ビッグウェーブを如何に乗り切るかが勝利へのカギとなるのだ。乗りこなすという表現は強ち間違ってはいないのかもしれない。
当然、クールタイムの間は山行を楽しむことにした。折角雄大な自然に囲まれているのだ。これは被写体になるしかあるまい。
私は劔御前を背景に自分がカッコいいと思うポーズでシャッターを切ってもらった。
見せてもらった写真は何故か思ってたのと違った。
劔沢キャンプ場が見えてきた。
これで下り龍との長い闘いが終わるのかと思うと感慨深いものがある。私は足取りも軽く道を急いだ。
キャンプ場に着いたはいいものの、何故かトイレが見当たらない。どうやら水道も近くの雪解け水を利用しているようで、彼方此方に太いホースが張り巡らされている。
私が辺りを見渡している間にも、一行はキャンプ場を通過しようとする。
下り龍との闘争はロスタイムへと突入した。
次の目標地点は劔山荘という、一服劔の麓にある小屋だとか。
因みに今回の山行では劔御前にはアタックせず、その手前の一服劔がゴールとなっている。劔御前は言うに及ばず、この一服劔もなかなかの曲者でちょっとしたロッククライミングが出来るらしい。それは構わないのだが、流石に現状のコンディションで登るにはなかなか辛いものがある。私は劔山荘を必死で目指した。
劔沢キャンプ場を越えた辺りからは周囲の景色がガラッと変わった。
まるで季節を間違えたかのように広がる万年雪は所々に見える緑と合わさって、ある種別世界的な美しさがあった。
下から立ち昇る冷気に刺激された腹がこの空間を現実だと教えてくれる。
私は空気の読めない下り龍と殴り合いながらも、その光景を目に焼き付けた。
雪渓地帯を越えると今度は岩場が見えてきた。なんでもこの辺りでは雷鳥が確認されているらしいが、生憎視界に映るのは人間ばかり。
私たちは後ろ髪を引かれながらも、その場を後にした。
歩を進めていると、途中から突然岩場が青々とした緑に変わった。
さっきまでの残雪はどこへやら、こうもいきなり景色が変わると感嘆よりも戸惑いが大きい。
少し進むと稲のような形をした植生に囲まれてポツポツと池が散見する。これが所謂池塘というものだろうか。これはこれで珍しい光景だが、今の私にそれを鑑賞する余裕は無かった。向こうに見える劔山荘が眠っていた下り龍を呼び起こす。私は半ば意地だけで歩き続けた。
一服劔の麓、山の中腹に位置する劔山荘は意外にも綺麗な建物だった。
私はもっとTHE山小屋みたいなコッテコテのログハウスを想像していたのだが実際にはそんなことはなく、外観こそプレハブながらも中は木造を主とした落ち着きのある空間だった。
私は小屋のスタッフに100円ーー山のトイレには利用料金が掛かるーーを渡し、場所も聞かないままに競歩でその場を去った。今更だが、トイレが近くにあって本当に良かった。
斯くして私は下り龍にトドメを刺し、わたしの1時間戦争に終止符を打ったのだった。
下り龍を制した充足感に満たされながら、いよいよ一服劔へと足を踏み入れる。
まず私たちを待ち受けていたのは、砂利が敷き詰められた急勾配だった。
だが、こんなものはまだまだ序の口だ。
斜面は次第に角度を増し、いつの間にか崖へと変化する。
鎖が吊り下げられたその様は、細い道と相まって如何にもな雰囲気を醸し出していた。
途中、雪渓の上を歩いた時は本当に恐かった。今までに通った人の足跡が道になっているために何処を踏めば良いのかは分かりやすいが、なにぶん陽が照っているために雪がシャーベット状になっていて足元が心許ないのだ。しかも、山の斜面を登る形なのだから尚更だ。あれは誰だって恐い。
私たちは雪渓とロッククライミングを乗り越え、遂に一服劔の頂へと到達した。
正直、私は一服劔を舐めていた。
確かに昨日登った山よりも標高は低いし、劔御前と比べればショボいと言う他ない。
だが、此処には確かな感動があった。
それは単に、苦労して登ったからこそのものかもしれないが、それでもこの光景には何かを感じずにはいられなかったのだ。
雄大な劔御前を擁した大パノラマ。
水平線は遥か雲海へと続いている。
この時程自らの語彙の無さを恨めしく思ったことはない。
私はゴールへ到達した達成感を覚えながらも、どこか遣る瀬無い気持ちに囚われていた。
一服劔で一服した私たちは頃合いを見て下山することにした。
帰りの行程については別段特筆することはない。敢えて言うなら、疲労でみんなの顔が死んでいたことくらいか。
私たちは特に怪我もすることなく、無事にキャンプ場へと帰還した。
キャンプ場に到着した私たちは休憩もそこそこに風呂へ直行した。
相変わらず日焼けは痛いが、今日でこの温泉ともお別れかと思うと少し我慢してみようと思えてくるから不思議だ。その後、しっかり冷水で冷やしたが。
風呂上がりにはアイスを買ってみた。
勿論、山岳お馴染みのスペシャルプライスだったが、たまにはこういうのも悪くない。何より美味い。クーリッ○ュ美味い。
キャンプ場に戻ってからは部員全員でカードゲームと洒落込んだ。
久々のUNOはやはり面白い。ただ、ゲーム中に自然と派閥が出来て、いつの間にかチーム戦の様相を呈するのはいつものことだとしても、私の仲間が1人もいないというのはどういうことなのか。そしてしっかり最下位争い。人によってはガチギレ案件である。私で良かったな!!
みなさんも友情崩壊ゲーには気をつけましょう。桃色の電車とか某パーティーRPGとか。
一通り遊んで満足した私たちは夕食を作るとこにした。
今日の献立はお手軽棒ラーメンである。作り方は簡単。湯を沸かして麺を煮てスープの素を入れるだけ。それだけでこの満足度なのだからやはり人間はすごいと思う。
運動してカロリーを求めていた私はおかわりを繰り返した。が、それでも足りなかったので残ったスープを鍋ごと頂いたが、これはどう考えても馬鹿だった。
実はこの時、食事中にも関わらず大雨が降っていたために、みんな傘を差して食べていたのだが、鍋ごと貰った私は当然手が塞がり雨を直接受けることになったのだ。
レインウェアを着ていたので自身が濡れることはないのだが、問題はやはり鍋だった。
ただでさえ多いスープはいくら飲んでもなかなか減らず、しかも飲んだ端から雨で補充されていく。
時間と共に薄まるスープ。だが一気に飲むには多すぎる。
私は飲み切ったスープを消化するために、雨の中テントの周りを歩き続けた。
あんなに降った雨も、夜にはすっかり止んでいた。これだから山の天気はよく分からない。
再度集まった私たちはダラダラと暇を潰していたが、途中からはホッシーの恋愛事情の暴露大会になっていた。何故かホッシー本人よりもクワちゃんの方が詳しかったが、それだけ周りに言いふらしているということだろうか。嫌そうな顔して実は惚気たかったのだろう。複雑なお年頃だ。
私は夜が更けるとさっさとテントに引っ込んでしまったが、この日の夜空は満天の星がまたたいていたらしい。
外からはウッディ達のはしゃぐ声が聞こえたが、正直眠かったので頭だけ出してチラ見した。なるほど、パッと見ただけだが確かに綺麗だった。これはテンションが上がるのも無理はない。私は眠かったが。
後から聞いた話だが、なんでも私がシェラフに入っている間に流れ星が見えたのだとか。ちょっと惜しいことをした。
それでもやっぱりこの時は眠かったので、私はテントの中でてっちゃん達とマヨネーズ談義をしてから、さっさと目を瞑った。
因みに私は納豆にマヨを入れる派だ。
文章:パカ兄