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単独行


加藤文太郎




槍ヶ岳/立山/穂高岳




一月二十六日 快晴 六・〇〇島々 一一・〇〇沢渡 一・三〇中ノ湯 三・一五―三・五〇大正池取入口 四・五〇上高地温泉
 中ノ湯附近は発電所入口や、水路工事などの人々が始終通るので、雪も少なく楽だった。ここでスキーを履き、トンネルを出てすぐ河原に下り川床伝いに行く。いつも世話になる大正池の水路取入口で、山の様子を聞く。去年の二月、上高地におった日、遊びにきたここの人がその夏、不慮の災難で亡くなられたと知って何だか淋しくなってしまった。温泉まではここの人がよく通るのでシュプールが残っており、知らぬ間に歩いてしまう。そしてあの親切な老爺が「よくやってきた」と喜んで迎えてくれた。

二十七日 快晴 六・〇〇出発 一〇・三〇―一一・〇〇一ノ俣 二・三〇大槍小屋スキー・デポ 五・一五槍頂上 七・〇〇スキー・デポ 九・三〇一の俣
 おじいさんはいつも寒暖計を見ながら「うんとシミれば天気はいいぜ」という。その通り今日もすばらしいお天気だ。去年は暗いうちに出てだいぶ困ったから、今度は明るくなってから出発することにする。明神池へ渡って川沿いに進み、横尾谷の出合から一ノ俣まであまり高廻りしないで川岸の岩場をへつったりする。小屋附近の積雪量は三尺くらい、今年は小屋を使用する人が多くなったためか、屋根の雪が煙で赤くなっている。槍沢附近はやはり雪が多い。赤沢岳の岩壁から滝のような雪崩が落ち、その音が意外に大きかったので驚いた。冬期太陽の直射によって出る雪崩は、こうした岩壁等の急斜面のみらしい。しかも雪質が湿っているため、落ちた斜面に食い込んでしまい殆んど押し出さない。山に登るには遅いと思ったが、天気はいいし、雪は堅くアイゼンで楽だったから頑張ってみる。風は強くないが相当寒い。黒い槍の穂は下から見れば近いがなかなか時間がかかる。もちろん三、四月頃の岩に雪が凍りついて真白になったときは岩登りの下手な僕にはとても登れないだろう。槍の頂上、なんとすばらしい眺めよ。あの悲しい思い出の山、剱岳に圧倒されんとしてなお雄々しく高く聳えている。感慨無量。

二十八日 曇 七・〇〇発 一一・〇〇唐沢出合 三・〇〇スキー・デポ 五・〇〇穂高小屋 五・四〇スキー・デポ 八・〇〇唐沢出合露営
 横尾谷は雪が少ないので夏道を伝い、唐沢出合附近で川床へ下る。唐沢谷は入ってからちょっとのあいだが一番雪崩のよく出るところで、それからは殆ど雪崩の跡はない。この谷は四方を高い山で囲まれているため強い風があたらず、雪が締っていないから輪が必要だ。穂高小屋附近は、唐沢岳の西側に沿って吹いてくる風が奥穂の岩壁にあたり跳ね返って、とても凄く吹きまくる。それに雪が少し降り出したらしく睫が凍って目が見えなくなるにはちょっと驚いた。いくら風が強くとも唐沢岳くらいはと思っていたが、なかなか小屋まででも大変だった。小屋の陰に坐って奥穂の岩壁に余り雪がついていないのを見ただけで退却する。ちょっと下るともう風もなく嘘のようだ。歩いて下るのも、ブレーカブル・クラストのためなかなか調子が悪く、またスキーを履いてからも暗いのとスキーが下手なので例のごとく七転八倒。本谷と出合ってから、ランタンに火を点そうとすると蝋燭が雪で濡れジーと音がするばかりで火がつかぬ。しようがないからそのまま下る。懐中電燈を持っていれば大丈夫だったものをと今になって悔いてもおそい。ついに出合からちょっと下ったところで川の中へ飛込んでしまった。深さは一尺くらいだったらしいが転んだため腰から下全部濡れてしまう。この調子ではスキーを折る恐れがあると思ったので、ちょっとした岩陰で露営する。靴を脱いで足をルックザックの中に入れ、坐ると濡れたズボンが足に触って冷いので立ったまま夜通し起きていた。とても夜明けの待遠しかったことよ。幸い雪が盛んに降っていたので温度が高く、濡れた物も凍らず、凍傷は免れた。しかしこれがため少し風邪を引いた。またスキー・デポから唐沢小屋まで柔い雪の中を頑張って歩いたので踵を痛め、それが冷えたのか痛くなり一カ月ほど癒らなかった。

二十九日 曇 六・〇〇発 九・三〇―一〇・三〇一ノ俣 六・〇〇上高地温泉
 一ノ俣に寄って上高地まで下るのに太陽がときどき現われるためスキーに雪がつき辷りが悪く、かつ昨日の疲れでなかなか時間がかかった。また一日中風が強く雪もときどき降った。

三十日 曇 七・〇〇発 七・五〇水取入口 一・三〇奈川渡
 例の踵が痛み思うように歩けなかった。松本四時半過ぎの汽車に乗るため奈川渡より自動車を駆って先を急いだ。



二月九日 曇 九・二〇千垣 一〇・〇〇芦峅 一〇・一五藤橋 二・二〇材木坂頂 四・〇〇ブナ坂避難小屋
 藤橋の手前でスキーを履く。積雪二尺。例の雪崩の出るところはちょっと悪い。あの附近は高山と違って真冬でも温度が高く、かつ南斜面だから太陽の直射でよく雪崩れる。材木坂より上は積雪量が相当にあってどこでも楽に歩けた。山毛欅坂もスキーによい斜面となっていた。霧が巻いてきたので山毛欅坂避難小屋に泊る。気持のいい小屋だ。炭俵がたくさんあり、その中に入っていると温かい。アルコールは便利だ。コッヘルにて餅を炊く。とてもうまい。また干柿もいい。この附近積雪量五尺くらい。

十日 雪 七・〇〇発 〇・〇〇弘法小屋
 雪が降っている。しかし風がないので幸いだ。弘法附近は積雪七尺くらい、南側の下の窓より入る。一月より寒いのか炊事場の水は表面が凍っていた。例の炉辺に寝る。午後七時頃よりときどき風の音を聞く。

十一日 雪 滞在
 何もすることがないので入り口の戸を開けて道を掘ってみた。すぐ埋ってしまうので中止。夜中より吹雪となり物凄く風が唸っている。

十二日 吹雪 滞在
 朝になっても吹雪は止まず、いつまでつづくことかとちょっと心配になる。一月福松が口癖に雪の立山、雪の立山と言っていたが、ほんとにその感じを深くする。しかしさすがの吹雪も午後五時頃よりおさまり、その夜は寂莫。静かな雪が落ちているのみ。

十三日 晴 八・四〇発 一・〇〇室堂 二・一五一ノ越 三・〇五立山頂上 四・一〇室堂 六・一五弘法
 朝起きて見ると白い雲が走っていて、ときどき青空が見える。雪もチラチラ降っている程度なので大丈夫と思って出かける。この雲は二〇〇〇メートル以下のもので、鏡石より上は快晴であった。思うにこれら雪雲は雪線について上下し、たいてい春秋は山頂附近に、冬は山麓に止まり、その附近に多く雪を降らすのであろう。天狗平の上は余り高く巻くと雪が堅く不愉快だ。室堂附近の積雪量は、一月と変らぬ。それとも風が強くてこれ以上は吹き飛ばされるのか。一ノ越から頂上までも一月と同様簡単に登れる。黒部谷をへだてて針ノ木―鹿島槍が雄大に見える。劔岳もまた凄く聳えている。風が強くなかなか寒い。写真を二枚撮って下る。

十四日 晴 六・四〇発 一一・三〇―〇・一〇藤橋 二・三〇―三・〇〇芦峅 三・三〇千垣
 藤橋で水量を計っている組についていた芦峅あしくらの案内らしい人が僕に向って、君が一人で登ったので大変心配したと言った。僕の行動がまるで知らない人にまで心配をかけたのは全く恐縮の次第だった。それから発電所の方へ渡って例の雪崩の出るところを避け、また右岸に返って芦峅に下った。



二月二十日 快晴 六・〇〇島々 一一・二五沢渡 二・〇〇中ノ湯 四・〇〇―四・五〇大正池取入口 五・五〇上高地温泉
 温泉のお爺さんは少し身体の具合が悪かった様子だが、飯を炊いたりしているうち、元気になり、僕が神戸から持ってきた餅を少しあげたら、自分は餅が一番好きだと言って、非常に喜んでくれた。そして大阪三越の古家武氏が二月の初め、一人で槍を登ったと聞き、ちょっと嬉しくなってしまう。

二十一日 快晴 六・三〇発 一〇・四〇―一一・〇〇横尾岩小屋 〇・〇〇唐沢出合 二・〇〇―二・二五池ノ平 三・四〇―四・〇〇横尾岩小屋 五・三〇一ノ俣
 横尾岩小屋に荷物を置いて唐沢谷偵察に行く。なかなかすばらしい谷だ。明るいうちに辷って帰るのは惜しいが、余り疲労するといけないと思って池ノ平から引返す。傾斜は緩く、雪も柔かで気持いい。

二十二日 雪後晴 滞在
 午後雪がやんで常念や大喰おおばみが雪煙を上げている。唐沢を少し登る。横尾の岩場に塵雪崩が始終懸っているのがよく見える。

二十三日 快晴 四・三〇発 六・三〇横尾岩小屋 八・〇〇唐沢出合 一一・四五唐沢岳直下スキー・デポ 〇・三〇穂高小屋 一・二五奥穂高頂上 二・〇五穂高小屋 二・二五唐沢岳頂上 二・三五穂高小屋 二・四五―三・〇〇スキー・デポ 三・三〇北穂側スキー・デポ 四・一〇北穂ノ肩 五・〇〇北穂高頂上 五・五〇北穂ノ肩 六・〇〇スキー・デポ 八・三〇―九・三〇横尾岩小屋 翌朝三・〇〇上高地温泉
 このたびは北穂にも近いようにスキー・デポを唐沢岳直下にした。いつも登る谷には奥穂の例の岩場のすぐ東側から一直線に池ノ平まで雪崩が出ていた。これは昨日の降雪で出たらしい。一昨日には見えなかったから。奥穂の岩場は去年の四月に比べて非常に楽だった。岩登りの凄いのは、やはり、三、四月頃の岩に雪が凍りついたときだろう。今日は風も無く暖かい。奥穂頂上で零下二度。これは明日の大雨の前兆だった。北穂も思ったより簡単に登れた。

二十四日 風雨 七・三〇発 九・三〇―一〇・〇〇トンネル 〇・三〇上高地温泉
 雨の日に出ることの危険は知っていたが、これほどまで凄いとは思わなかった。出勤の日が切迫していたので無理に出たが、あんな日にはもう二度と出まいと思った。幸か不幸かトンネルの入口が雪崩でこわれ、雪が一杯詰っていて通れずやむなく引返した。

二十五日 快晴 七・〇〇発 〇・〇〇徳本峠 二・三〇岩魚止 七・二〇島々
 昨日の雨で岳川谷の下半部は真青になっていた。徳本とくごうは、普通輪※(「木+累」、第3水準1-86-7)で登る左の小さい谷に入って意外にひまどった。徳本の島々谷側は峠の東北側から一直線に底雪崩が下まで走っていた。たいていの谷から凄いのが出ていた。それらを横切るのにピッケルが必要だった。この一週間は割合天気がよかったが、僕と入れ代りに上高地にきたB・K・Vの成定氏および額氏は、その後一週間毎日雪が降り、殺生小屋附近しか登れなかったという。
(一九二五・一二)
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私の登山熱







 私は神戸に来てから三年くらい旅行の味を知らなかった。大正十年遠山様設立のデデイル会(三菱)に入ってからこの味が少しわかりだし、大正十三年以来兵庫県内の国道と県道を四百里ほど歩いた。大正十四年の八月終りには蓮華温泉から白馬岳に登り鎗温泉に下り、吉田口から富士山に登り御殿場に下山を皮切りに、九月には大峰山脈を縦走し大台ヶ原山に登った。十月には大山に登り船上山へ廻ってみた。大正十五年七月中頃には岩間温泉へ下山、七月終りには中房温泉から燕岳へ登り大天井岳西岳小屋を経て槍ヶ岳の絶頂を極め穂高連峯を縦走し上高地へ下山、平湯から乗鞍岳に登り石仏道を下山、日和田から御嶽山に登り王滝口下山、上松から駒ヶ岳に登り南駒ヶ岳まで縦走し飯島へ下山、八月中頃には材木坂を登って室堂にいたり浄土山、雄山、大汝峰、別山と縦走し劔岳を極め長次郎谷を下り小黒部を経て鐘釣温泉へ下山、八月終りには戸台を経て仙丈岳を極め引返し駒ヶ岳へ登り台ヶ原へ下山、大泉村から権現岳を経て八ヶ岳連峰を縦走し本沢温泉へ下山、沓掛より浅間山に夜行登山をなし御来光を拝し小諸へ下山等の登山をした。
 これらの登山中私はいつでもリーダーなくただ一人だったから、日数は割合多く費やしたが費用は少なくてすみ、精神修養、山への自信等多くの利益を得た。
 白馬の熊――白馬小屋で夜中にガタガタと戸を打つ音がすると思って目をさますと、寝ている小屋の横でドスドスと大きな足音のような物音がするので、テッキリ熊だと思ってゾッと冷汗をかいたまま毛布を被って息を殺していた。翌朝小屋の人にこの話をすると、夏の終りにはときどき、食物を求めに熊が来るとのこと、それ以来、鎗温泉から小日向山を乗越すまで声を限りに歌を唱い通したが、今思うとおかしくてならない。何分初めての山登りでもあり、中川原の宿屋でも、蓮華れんげ温泉に食物を運ぶ人が温泉に行く途中で木に登っている熊を見て驚き、悲鳴をあげて逃げだすと、熊も恐ろしい声を出して谷間へ転げ落ちるかのように姿を消したと聞いていてビクビクしていたときだったから無理もない。
 大峰山――山上ヶ岳の籠堂こもりどうで案内人どもが縦走のなかなか苦しいことを語り、むやみに傭ってくれと言う。私はいつでも一人でリーダーを傭わぬとわかると、缶詰を持っているかとか、水が無いから氷砂糖のような物を持たぬといかんとか言う。私がキャラメルを持っていると出して見せると親切に話しながらみな平げて行ってしまった。
 大山――僅か五六五二尺の山だが、偃松はいまつがあるのと眺望の雄大なのに驚いた。
 船上山――さすがは有名な史蹟だ。秩父宮様の行啓の碑があった。
 白山――白山を縦走してやろうと思って尾添から美女坂道を登ることにした。ところが地図には堂々と道があるが、行ってみると炭焼の道が途中まであるきりで、トテモ通れない。その中を私は一生懸命に歩き廻ったが、結局は後戻りだった。この日一日オジャンになってしまったが、私がよく調べて行かなかったのが悪いので誰をうらむわけにもいかぬ。さて地図には書いてないが、岩間温泉から登山道ができていることがわかり、すぐにこれを登って温泉へきてみると人がいない。仕方がないから引返して途中の山小屋に泊めてもらった。この日は白山祭でたいていの小屋の人は村へ下山していたが、ここの人々は養蚕をやっておられたので、幸いに泊めてもらうことができた。なんでも大津で暮しておられたが、主人が脚気にかかり、やむを得ずこの故郷に帰っておられるとのことだった。それから山の話や、熊は逃げるのが早く高いところにはいないので岩間温泉附近に一番多くいるとか、長いあいだいいお天気がつづいたから明日は雨かも知れない、もし雨が降れば山は風もつよく危険である等と種々話された。翌日はやっぱり雨だったし気持の悪い風も吹いていた。主人はもし危険だと思ったら引返しなさいと言って、昨日のラッセルでワラジが一つ無くなっているのを見て無い中から作って下さった。雪渓が多いのと風雨が強かったので相当苦心したが、無事白山の絶頂を極め得たことをこの人人に感謝してやまない。ただ小さいお金が無くて壱円なにがししか置けなかったのと、名刺を置いたが名前を聞かなかったことを心残りに思っている。
 昔の穂高連峰――殺生小屋で、あるリーダーが昔の穂高連峰は最も恐しい山で、今の北鎌尾根以上であって、その頃他のリーダー等と穂高縦走をやったが、その日は大変荒れて雨が降り風も吹いたため、尾根を取違えて迷い廻ったこと三日間、いかな山男も運を天にまかせてしまったほどだと言っていた。しかし幸い彼の喜作新道の開発者喜作様が心配してきて救い出してくれたという。この喜作様は冬猟のとき雪崩のため小屋もろとも埋められて死んだそうだが、喜作様の名前は西岳連峰縦走道によって長く伝えられるだろう。
 今の穂高連峰――昨年私が穂高を縦走したときは相当風雨も強かったが、大変道がよくなっていたので無事縦走することができた。夜中には小屋の屋根が飛んでしまうかと思うほど風が吹いたと穂高小屋の人が言っていたが、私は少しも知らぬほど安らかに寝られた。これが昔であれば、私はどうなっただろう。日本アルプス登山案内に穂高に登るは天に登るより難しと形容して書いてあるが、その頃から見れば穂高もだいぶ俗化したようだ。次に穂高小屋からの葉書を紹介する。「謹んで新年を迎へ奉り併せて高堂の万福を祈上候さんとして輝く新春の光に白雪を頂くアルプスの連峰雲上遥に諸賢アルピニストの御健康を祝するが如く仰ぐも荘重の気全身に満るを覚え申候、目出度き歳旦に諸賢の登山御計画を拝想するは神山を仰ぐ者の非常の喜びに候、顧ればアルプスの登山は年と共に激増し哦々がが重畳たる連山も我等が山の感を抱かせ申す程に候、是れ一重に諸賢登山家の御努力の致す所茲に小生有志と計り最嶮処なる穂高諸峰の踏破を容易ならしめんと穂高小屋を計画し昨夏完成を見るに至り食料品寝具の充備は勿論ストーブをも新設し安らかなる登山とし幸福なる山境として諸賢の御満足を御期待致し得るは穂高小屋最上の愉快に候、尚ほ船津営林署に於ては蒲田がまた温泉より白出沢を通じて当小屋に至る三尺幅の新道を開通し完全に危険を去り此の間四里且つ蒲田温泉へは半里の栃尾迄自動車の便あれば衆俗をはなれし山境蒲田に第一歩を印せられて諸峰の嶮を探ぐるも意義ある事と存候、想ふに毅然たるアルプスは日本人の表兆にして登山家諸賢の御参登を仰いで初めて小生の寸志も遂げ得る者に候、切に礼賛御宣伝を御希申上候 敬具」
 鉛筆登山――私は彼のリーダーに今年北鎌尾根を縦走すると言う人があったと言ったら、彼は今年はまだやった人はないし、それは地図に色鉛筆で見事な線を引くだけの鉛筆登山というのだろうという。私もなるほどそれに違いないと思った。神戸徒歩会も夏期大旅行とて穂高縦走を書いていたので穂高小屋で名簿を見たが、見つからなかった。これも鉛筆登山だったらしい。
 乗鞍と御嶽――穂高下山道で見たスタイルは素敵でともに富士に劣らぬほど雄大であった。地図には書いてないが石仏道というのは地図の千町ヶ原道の二四六二・二メートルの三角点より少し下で左の尾根に入り一八六四・七メートルの牧場を通って橋場というところに下る道で、途中に避難小屋もあり乗鞍から御嶽へ登るにはこれが一番近いように思う。日和田から御嶽へ登る道も案外よくて予定より早く登れた。御嶽はなかなか繁盛している。しかし乗鞍は淋しかった。雨が降ったために平湯や白骨に居つづけている登山者の多いためだったのかもしれない。
 駒ヶ岳――西駒は中央アルプスといわれるだけあってなかなかいいところがある。北アルプスと南アルプスを前後に見る眺望は日本一だろう。駒縦走路は少しも危険なところがなく案外だった。南駒ヶ岳を乗越していい道があるのだったが知らなかったため、摺鉢窪すりばちくぼへ下って人のいない小屋よりズーッと下の沢で野宿をした。翌朝午前十時飯島へ下って、有明からここまで十日間の長いコースを無事に終った。しかし山に別れることはなんとなく淋しかった。
 立山室堂――室に上下の差別があったり、蒲団を売店から借りなければならぬくらいはよいが、ここの人は皆不親切である。何を尋ねてもたいてい返事をしない、私が劔岳より小黒部のコースを中語ちゅうご君に聞いてみると初めは知らぬ顔をしていたが、そのうち一人曰くあそこはとても一人では行けない一人は案内もしない、一人で通れたら首でもやろうという口振りで道がどうついているのか幾ら聞いても冷かし半分で教えてくれない。こんな人情のない人々がこの神聖な高山にいるのかと呆れてしまった。立山室堂とはこんなところとは再三聞いてはいたが、余りのことに二度とくるところではないと思った。一人で小黒部に遊び鐘釣温泉、新鐘釣温泉を知るにつれいよいよ富山人ということが深く頭に染込んでしまった。小黒部が一人で通れないようでは高山探検は思いもよらぬことだと私は思う。しかし立山は悪くない、一度は登りたいものだ。
 南アルプス――仙丈岳はさすがに一万を抜く山だ。県設小屋の上の方に相当雪があった。東から北へ白峰山脈、富士山、鳳凰山、アサヨ峰、駒ヶ岳、八ヶ岳、北から西へ北アルプス、中央アルプス、南に赤石群山を望み人里離れた深山らしさは他の山では求められぬ、私は他の山で皆登山記念品を買うことができたが仙丈岳は何も無い。しかし仙丈岳の三角点の等級を知っているということのみは、私が登山したという最も確かな証拠であると思う。仙丈岳に登った人はたくさんあっても、これを知っている人は非常に少ないと私は信ずるから。東駒の下山道で尋常六年生くらいの子供二人に出会った。彼等は八合目の人のいない石室に寝て翌朝御来光を拝し下山したのだが、さすがは山の子、感心なものだ。
 八ヶ岳――権現岳の避難小屋に一泊したが、風通しのよいのに驚いた。雨は降る、風は吹く、雷の電光が遠く下の方で光って、夜は更けて行ったが、やっぱり小屋に寝たのだが、風も引かず愉快に八ヶ岳を縦走することができた。小屋はこの他たくさんあって登りよい山だ。眺望もなかなかアルプスに引けを取らぬ。
 浅間山――夜行登山には最適の山だ。どうせ神戸まではここから一日かかる。この一日の朝飯の前に登れるのだから面白い、夜は噴火口は赤くて物凄い、ときどき硫黄の臭いが鼻を螫す。日の出前はなかなか寒い。
(一九二六・五・一)
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北アルプス初登山









大正十五年七月二十五日(日曜日)晴
 午前六時三十五分有明駅着、少し休む。自動車あれども人多く自分は徒歩にて出発、自動車道なれば道よし、有明温泉を経て川を遡る。名古屋の人(高商生)と一緒に行く。アルプス山間たる価値ありき、中房なかぶさ温泉着約十二時、名古屋内燃機の人四人(加藤という人もありき)と逢えり、温泉に入浴昼食をとり一時中房温泉発、急なる登りなり、四時半つばくろ小屋着、途中女学生の一隊多数下山するに逢う。サイダーを飲み高い金を払う。軽装(ルックザックを置き)にて燕頂上へ五時着、三角点にて万歳三唱せり。途中立山連峰、白馬、鹿島槍を見、鷲羽連峰等飛んで行けそうなるほど近くはっきりと見え心躍る、燕小屋へ引返し午後六時泊、槍は雲かかりて頂上見えず。

二十六日(月曜日)晴後雨
 燕小屋午前六時出発、この路アルプス銀座通りといい非常に景色よく道も良し、今朝の御来迎は相当よく富士などはっきり見え槍も見ゆ。大天井岳の前にて常念道、喜作新道の岐れ道あり、そこにルックザックを置き、大天井頂上を極む。三角点にて万歳三唱、豪壮なる穂高連峰、谷という谷に雪を一杯つめ、毅然とそびえたるを見、感慨無量なり、もとの道に引返しルックザックをかつぎ喜作新道を進む。右高瀬川の谷を眺め、眺望よきこと言語に絶す。この辺の景色北アルプス第一ならむ。西岳小屋にて休み焼印を押し、昼食をなす。途中広島の人(東京の学校にいる)東京の人(官吏)と三人となり十一時半頃出発、途中にて人々に別れ、一人にて道を行く、殺生小屋着二時半、途中大槍小屋に行く道ありて、その辺より雨降り出す。雨を冒して槍の頂上へ出発、ルックザックは小屋に置き、急なる道を進み、四、五十分にて槍肩を経て頂上着、祠あり名刺を置き三角点にて万歳三唱、一時間くらい霧の晴れるを待つ、ときどき天上沢、槍平方面の見えるのみ、下山、殺生小屋泊、人の多きことに驚けり。

二十七日(火曜日)雨
 雨を冒して九時半殺生小屋出発、大喰岳、中岳等を経て南岳(地図の北穂岳)へ来り三角点あればそこにて昼食をなし万歳三唱、そりより数町行きて大キレットに下る。驚くべき大絶壁にて下るを得ず引返して谷に下りてみれば道あり、水の出でたるところありて渇を医す、大キレットに下り、これより北穂高に取付く、そこにて松本の人(早稲田)大阪(ジュンレイ会か)の人二人に逢う。北穂高の取付きは非常に悪き道なり、途中迷うことも多からむ、石の祠あり名刺入れの缶あり、自分もこれに名刺を入れ万歳三唱下山す。それより上下ガレ道ばかりにて非常に辛し、また名刺を入れ万歳三唱して下山すれば、目下に小屋あり、嬉しきことこの上もなかりき。声をかくれば返事ありてホッと安心す。行程僅かに二里くらいなるに九時間も要せり。六時半小屋着、ときどき霧晴れて抜戸岳、笠ヶ岳を見る。この日雨風強く相当困難なり。

二十八日(水曜日)雨後晴
 早朝より相当風強けれども、十時過ぎ雨を冒して小山を出発、奥穂高取付き非常に困難、北穂高取付きと同様なかなか危険なり、されど道割合に分りよく無事奥穂高絶頂を極め、万歳三唱、名刺を置き、左の屋根に下る。ガレ道の下りなかなか困難、数時間にして前穂高着(地図の穂高)。展望台の壊れたるあり、三角点にて万歳三唱、名刺を置き、名刺入の缶の中を見れば矢沢氏(アルプスの本著者)等の名刺発見せり。二時間ほど霧の晴れ間を待つ、唐沢、上高地、明神方面ときどき見え痛快。なかなか霧晴れざる故あきらめ四時頃下山、乗鞍御岳の雄峰前に見、眺望よし。途中道瞭らかならず偃松等をわけ、あるいは水の流れるところ等を下る、なかなかはかどらず。されば谷を下ればよしと思い雪渓に出ずれば非常に急にして恐ろし、尻を着けアイスピッケルを股いで滑れば、はっと思う間に非常な速度にて滑り出し、止めんとすれども止らず、アイスピッケルにて頭等を打ち、途中投出され等して数町を下りたり。そのときもう駄目なりという気起り気遠くなる思いなり。岩にぶつかるならんと思い少し梶をとりようやくスロープ緩きところに止り幸いなりき、あやうく命拾いしたり。それよりアイスピッケルを取りに行く困難言葉に表わされず、小石を拾いてそれにて足場を作り一歩一歩進む。手の指かじかみ足また凍えて苦しきことかつて知らず。ようやくピッケルを取りたるときの嬉しさ例えんに物なし、それより尾根へ取付き相当苦しきところを下る。ルックザックのところにて雪渓を行きカバの木を尻にしきて雪渓を辷る。割合安全なれど力を要し進まざれば、途中にて止め、尾根に取付きそれを下りて川原に出で、これを下ればよき道に出でたり。これすなわち穂高登山道ならむ。雪渓へ出でずこの道を下れば、かかる困難をせざりしならむにこれもまた後日のためならむか。経験得るところ多し。これらすべて実に偉大なる恐るべき山なり。穂高は実にアルプスの王なりとしみじみ感ぜり、神の力に縋らずして命を全うすることを得ざるなり、有難く感謝せり。それより道を下る、森林道にてなかなかよし、途中にて提燈をつけ歌を唱いて下る。無事カッパの橋の人家あるところに出でホッとせり、上高地温泉につきしは九時頃なり、嬉しかりき、温泉へ数度入り宿泊せり。

二十九日(木曜日)
 雨をおかして六時頃温泉発、大正池附近川原にて道明らかならず迷い、山の方へ川原遡れば道に出でたり。それを行く人に逢い焼ヶ岳に行く道なりと聞きまた川原を下る。大正池数町の手前のところに道あり、これすなわち求むる道なり。焼の中腹道にして通行人も少なく、水の流るるところは土崩れを生じ道なくなかなか困難なり、それより中ノ湯を上り安房峠へいたる。なかなか深山らしき大森林なり(ブナ帯)笹原を下り、平湯に出ず(十時半)十一時同所出発、鉱山跡を通り乗鞍大滝を見ながら上る、非常に大きな滝なり。風雨強く雷鳴を聞きながら登る、大雪渓を突破し頂上近き偃松帯に入り池畔を通りて乗鞍八合目(六時頃着)にいたれば、観測所小屋の壊れたるあり。この他泊るべきところなきよう思われ観測所小屋に入り火を焚かんとすれども燃えず、止むを得ず濡れたるものをぬぎなどして寝るべき支度をせり、気付きて案内の地図を見れば頂上小屋なり。さればと荷を置き頂上へ出発(七時)頂上らしきところまできたりたれど小屋らしき物なし、止むを得ず引返したるも道に迷う途中、小屋らしきものありて火が見えたり、喜び声をかくれば人あり。ここは八合目の小屋なりと、ただちに宿泊を頼む。荷物は観測所に置いたままその夜疲れ寝たり。

三十日(金曜日)祭日 雨後晴
 風雨をおかして八合小屋発八時頃。その前荷物を観測所へ取りに行き朝食後出発、昨日の道を進む。昨日頂上と思いしは前山にして、それより数町にして小屋あり。これ頂上の小屋なり(ヒダ小屋)九時頃着、そこに休み、昼食を食す(下駄履きにて頂上、三角点を極め万歳三唱す。展望台の壊れたるあり祠数多ありき)十一時半石仏道を小屋の人に教えてもらいそれを下る、少し雪渓を下りて山を廻り西側に出で尾根を下る。もはや道を迷うこと(途中小屋あり、雨ふる)なし、牧場に入りそれより下りに少し迷い、日和田へ無事着六時過ぎ宿へ泊る。

三十一日(土曜日)晴
 日和田発、七時頃宿の人に道を教わりたる故迷わず進む。御嶽おんたけの裾野を行く途中草刈りの小供に道を教えられ迷うところを無事通過、前は御嶽の雄姿、後に乗鞍の雄峰を眺めながら行く、実に景色よく心躍るものあり、途中木に御嶽道と記せり、内ヶ谷の川を渡り笹原に取付き嶽ノ湯へ行く道を横切りて急なる道を進む、雪渓に出でこれの右側を進む。なかなか急なり、休み後方を見れば、御嶽の裾野の偉大なるに驚けり、高天原継子岳ままこだけ着、二時頃三角点にて万歳三唱、両側に池を眺めながら尾根を進みて一、二時間にて摩利支天着、三角点にて万歳三唱、下山、雪渓の上を廻りて道に出で、また登りて、二ノ池小屋着、焼印を押し絵葉書を買い黒沢口小屋に行く、王滝頂上小屋へいたり荷物を置き頂上へ行く。数多祠あり、また登りて三角点にて万歳三唱、一〇二一八尺の石碑あり、これはどこより計算したるか知らず、地図には一〇一〇八尺なり、社務所にて絵葉書、扇子、御守、御百草(ダラニスケと同様らしい)を買う。小屋にて焼印を押し泊る。

八月一日(日曜日)曇
 早朝起床支度をなし、朝食をすまし、午前六時小屋出発。王滝口下山なかなか急峻なる道なり。七合目までは苦しいほどの下りにて七合よりスロープ緩く楽なり。三笠山の横を通り多くの小屋を過ぐ、王滝十一時半着、途中清滝王(新)滝を見物せり、なかなか気持よきところなり、王滝村にて昼食をなし十二時出発木曾鞍馬橋を渡る。風景絶佳なり。橋の下百尺くらいのところに川あり、両岸絶壁をなし、他に求め得ざるものあり。崩越より急なる山道に入る、暑さのため鼻血を出し半時間くらい休み、峠を越し、少し迷いて歳児(サイチゴ)に出ず、この峠を越し小川という川に出で、それを下り上松に出、ここへ泊る。六時半。

二日(月曜日)晴
 上松の宿屋を六時発、道標を見て進む、非常によき道なり。鳥居をくぐりて少し登り徳原を過ぎ、河原に出で、なお進むと小屋あり、ここが三合目にして、これより急に上りとなる。登山者名簿に名前を書き急峻を攀ず。なかなか大森林なり、五合目小屋にて休み木曾須原への下山道を聞く。上松の御料林局にて聞きたるも同様道なしと言う。登ること数時間八合目の小屋着、昼食を食し焼印を押し絵葉書を買う。なお登り木曽駒頂上小屋着、焼印を押し絶頂へ、多くの祠あり、参拝御守を戴き、三角点にて、万歳三唱、眺望よからむに霧にかくれて何物も見えず、右へ主脈を進み中岳を経て、宮田小屋着、三時絵葉書焼印スタンプ等を押し前ヶ岳の三角点に行き万歳三唱し引返し宿泊せり。
三日(火曜日)晴
 今朝は痛快に晴れる。小屋にては北アルプス見えざれば本岳まで行き、御来迎を拝す。本コース中最後の最もよき御来迎なりき。八ヶ岳の上よりの日の出実に例えようなし。西の方御嶽を見返し乗鞍、穂高連峰獅子の吠えたるが如く、槍天を突き立山又前山を突き抜けて見え、東は八ヶ岳、南アルプスとを競い、駒ヶ岳雲を抜きて聳ゆ、仙丈岳、北岳、あいノ岳、農鳥岳のうとりだけ等天を突き、富岳整然と南アルプスを圧す、塩見岳、東岳、荒川岳、赤石岳等高く聳えて、互いに高さを競い、蜿々列を作る、南は宝剣、前駒ヶ岳、南駒ヶ岳等互いに譲らず、三沢岳右に出で主脈をにらみ、遠く恵那山にいたるまで蜿々たり、実に日本アルプスの中屈指の眺望よきところならむ、幸いなり、かかる眺望を得し己の幸他に求むべくもあらず、例えんに物なし、引返し、朝食をすまし小屋出発、六時過ぎ宝剣(剣ヶ峰)を極め九〇〇〇尺以上の山々を上下し、南アルプスをにらみ返しながら前駒まで縦走、なかなか困難なり、前駒(空木岳)の三角点にて万歳三唱、なお進みて南駒に取付き午後五時頃絶頂を極む、霧かかりたれば引返し、すりばちクボに小屋あることを知りそれへ下山、小屋二ツあり、記名をなし、なお下れば道特に悪し、本コース中第一の難路ならん、暗くなり一層困難せり。道なきを進み疲れはてて九時頃山中へ一泊せり。

四日(水曜日)曇
 早朝起き川原に出でんと下れば途中道あり、それを進む、川の左岸のみを行きて川原に出で尾根へ取付きなどしてなかなか苦しき道なり、ようやく小日向の小屋に出で見れば道標あり、自分の下りし道の他に本道とてよき道あり、本道を通らばかかる困難はせざりしに、これよりは道よく道標ありて迷うことなく九時半飯島駅着、十時の電車にて辰野へ、中央線にて塩尻を経て名古屋へ、東海道線にて神戸へ無事五日午前一時着せり、同二時床につく。痛快言わん方なかりき。かかる大コースも神の力をかりて無事予定以上の好結果を得しはまことに幸いなり、神に感謝せり。ああ思いめぐらすものすべて感慨無量なり。



大正十五年八月十二日(木曜日)晴
 午前九時千垣駅着、九時半出発、常願寺川を遡り藤橋にいたる、途中水の出たるところ多く、暑さ厳しき故水を飲むこと一升余ならむ。藤橋十一時昼食をなし、草鞋わらじを買い出発、川を渡りて急峻を攀じ高原へ出でブナ小屋にて休む。弘法、追分小屋等を過ぎ地獄を見物せり。なかなか恐ろしきところなり、硫黄の臭強く、ところどころ沸騰せる温泉音を立つ、室堂へ着きたるは七時頃なり、絵葉書を買い宿泊せり、ここの人たいてい不親切なり、私の問に答えず。

十三日(金曜日)晴
 午前六時室堂出発、食糧二日分を持ちなかなか重し、浄土山の肩へ登り荷物を置き浄土に進む。右の祠あるところに行き、後左の最高点に登る。五色ヶ原眼下にありて、小屋も見ゆ。薬師の尖峰南にあり、槍、穂高、群山を抜き乗鞍、御嶽またゆずらず。黒部谷いよいよ深く鹿島槍巍然たり。引返し急峻をよじれば、雄山の絶頂なり、草鞋を脱ぎて登る。眺望雄大北アルプス屈指の景色よきところならん。神社に拝し、引返したところに三角点あり。ここは絶頂より六メートルくらい低からん。荷物を担ぎ尾根を進みて、大汝峰にいたる。ここへ登りて万歳三唱。別山との大キレットに下り、また登りて、別山の頂上に出ず祠あり、参拝。池にて昼食、別山の絶頂東の端にいたり万歳三唱、引返し尾根を進む。眺望のよきこと言語に絶す、三角点に名刺を置き、万歳三唱。少し進みて花畑を通り道明らかならざれば偃松帯を進み三田平の西北に下りてみれば人に逢う。劒より引返したる人なり。三田平の小屋は別山の北にあり、ここより望めば明らかなり、また尾根へ取付き進む、なかなか危険なるところ多くして痛快なり、この辺穂高に劣らず、上下を繰返しつつ急峻を攀じればすなわち求むる劒岳なり、絶頂へ着きしは三時なり。眺望雄大無比、寒暖計あり、大山神劒山の柱の下に名刺を置き万歳三唱せり。この日宮殿下御二方御登山あらせられたりと拝す。それより下れば三人の人あり、白萩より来れりと言う、平蔵を下る人なり、私は長次郎の雪渓を下る。宮殿下の御足跡を拝しつつ下り、途中辷りなかなか恐ろし、ようやく平蔵の出合に出で右へ本流を下る。前面に黒部別山わだかまる、半時間くらいにて雪崩れたるあり、右側に道あれど詳かならず、川原を進み尾根に取付き等してなかなか渉らず、力つき暗くなりたれば河原に野宿せり、海抜五五〇〇尺くらいのところにて寒し、七時半。

十四日(土曜日)晴
 幸いに雨に見舞われざれば、さほど困難せざりしも、なかなか寒き夜なりき。明くるほどにますます寒くふるえながら朝食をなし、六時頃出発、尾根へ登りて進む、困難なり。河原に下りて雪渓を下り、左の谷の雪渓を遡る。それより八峰を眺めながら右の谷へと進み急傾斜を登れば谷つき森林となる。これを突破すれば雪田あり、これ池なり。ここより上の山の肩を見れば小屋あり、すなわち池ノ平の小屋なり。八時半ここを出発、池ノ平山の中腹を廻りて進む、雪渓にて道つきたれば、雪渓を下る、急峻にしてこわし、割合辷らず下りて小黒部本流に出で大雪田を下る。雪渓切れたれば、右の尾根へ道を求めて、河原に出で橋を渡り左を進み、あるいは尾根をあるいは河原をあるいは川を徒歩等困難せり、なかにも急流徒歩の折等は流されんとして命からがら岸へ飛びつき、着物等濡らす、尾根を進みまた下りて河原に出で、流れゆるきところを流されつつ下れば松高山岳部の昼食記念の書きたるあり(この辺川の出合なり)安心せり、右手に道を見、それを進む、分りよき道なり、嬉しくもう大丈夫と思い歌を唱う。黒部本流へ合する前、道は尾根を急に登れば少々不安なりしも道他になきようなれば、これを進む。尾根頂上へ登り切って左手にすぐ下る。下り切ればすなわち祖母谷ばばだに温泉にいたる広き道なり。ここへ出でたるときの嬉しさ例えんに物なし、万歳三唱せり。
 黒部本流の景色言語に絶するほどなり、かかるところ他に求めざるべし、鐘釣温泉にいたれば人々多く、外人もいるに驚けり六時半着、温泉は非常に綺麗にして殆んど味もなし、この辺の景色とても素敵なり、この夜寒くなし、温泉に浴す。

十五日(日曜日)晴
 本コースは一度も雨に逢わずまことに幸いなりき、無事立山縦走も終りて神戸に帰ると思えば淋し、六時過ぎ出発。今朝は温泉にも入りて気持よし、黒部川の眺め絶佳なり、新鐘釣温泉により、日本電力の大工事に感服せり、絶景も過ぎ、暑くて暑くてならぬと思いながら十時半頃宇奈月うなづき着、登山名簿へ記入し、黒部電鉄にて三日市へ、三日市にて名物西瓜を食い、汽車四十分遅れたれど無事十二時四十分発にて米原へ乗換後神戸へ一時着。
(一九二六・九)
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兵庫立山登山







 私は兵庫県と鳥取及び岡山県界の山脈を兵庫アルプスといい、海抜千五百メートル一のひょうノ山を兵庫槍、三室山を兵庫乗鞍、一番南の一三四四メートル六の山を兵庫御嶽と呼んでいます。扇ノ山は頂上が全部鳥取に入っているから、この山の前山を兵庫立山ということにしました。この立山の高さはよくわかりませんが、一二八〇メートルくらいでしょう。私は昨年九月、この山と扇ノ山へ登るために私の故郷浜坂に下車したのが午前三時半頃でした。私の家に寄って四時過ぎ出発、浜坂に流れている岸田川、すなわち兵庫黒部川を遡って、霧ヶ滝に着いたのは十時頃でした。この滝は水量が少ないのと高さが二百尺以上もあるため、水は途中で大部分霧になってしまうようです。それで霧ヶ滝というのでしょう。ここまでは村人が炭焼きにくるので道がありますが、ここから頂上までは道がありません。そこで少し下って東側の小さい尾根を登り一時間くらいもかかってやっと九〇〇メートル以上の高原のようなところに出ました。ここからスズ竹が網の目のように重なり合っている中をラッセルするので、一時間僅か五町くらいしか進みません。これを突破し滝の上流に出て小川を上り、またスズ竹の中をラッセルして兵庫立山の頂上に午後一時過ぎに着いて、一番高そうなところの木に登って四方を眺めたときは、今までの苦しみは一掃されてしまいました。北の方鳥取から香住までの海岸が絵のように見えます。東に兵庫白馬と三角点のある兵庫鷲羽等は飛んで行けそうに近く見え、これらのあいだを越して兵庫大天井すなわち鉢伏山が岡のような顔を見せているし、今きた高原も眼下に白馬と鷲羽から流れてきています。兵庫槍も大きな尾根を東西に引いて雄大に見えます。もちろん扇ノ山は近いので一層大きく雄大な裾野を引いて西へ沈んでいるのは、なかなか深山的です。立山を下って扇ノ山に登りました。ここは鳥取の人が炭焼きにきて少し木を切っていて楽に歩けます。頂上辺で炭焼きの人に逢い、鳥取県からはこの山へ道があると聞きました。扇ノ山の三角点は木が茂っているのと汽車の時間が気になるので、急いだため見つかりませんでした。そしてスズ竹の中を東方へ下って川に出ました。この川も以前の川も熔岩の中を流れています。但馬のスキー場神鍋山かんなべやまと同じ頃か、もっと古い火山でしょう。裾野を見ても火山であったことを思わせます。川を下って行くと五時頃村の人に逢いました。この人は川にミノすなわちレインコートの材料にする草を取りにきていたのです。そして私が、この道のない山に登り、よく出てこられたと感心していました。ここからはすぐ道がありました。村へ下ってもとの道を浜坂へ帰り、午前一時の汽車で故郷を離れました。低い山でも道が無いと苦しいですね、測量した人はなかなか苦心していることがよくわかりました。
(一九二七・五)
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兵庫御嶽―乗鞍―焼登山記







 四月二十九日、午前五時十分智頭ちず行の汽車は鳥取を離れて残雪に蔽われた立山と扇ノ山を左に見て、南へ走って行きます。立山が隠れて氷ノ山が、大きな尾根をちょっと見せました。そしてなお奥へ奥へと汽車は走って行きます。西側の山は山吹の花で黄金色に飾られ、下を流れる智頭川は一層綺麗に見えます。六時半頃でしょう、汽車は智頭の町へ止りました。
 そして私は自動車でなお二里半ほど奥へ入りました。ここから河鹿の音を聞きながら本谷川を上って行きます。ときどき涼しい風が両側の谷から吹いてきますが、ルックザックの重味と、小春日和のお日様とで汗がにじんできます。鍋ヶ谷の国有林を眺めつつ志戸坂峠へ登りました。そこには兵庫御嶽の前山が目の前に大きく聳えていました。この峠で鳥取県と別れて岡山県へ急に下って行きます。坂根から岩津原というところにきました。この村の人に兵庫御嶽の前山を俚称大海といい御嶽を俚称道仙寺と言うのだと聞き、小才田と言うところから兵庫県へ向って深い谷を上って行きます。この谷は植林してあってだいぶ奥までいい道があります。しかし海抜一〇〇〇メートルあたりから道は通れぬようになりました。そこで御嶽の前山(岡山県の山)大海へ、熊笹からスズ竹へとラッセルして行きます。なかなかひどい竹で一時間五町も進めません。ところどころ雪も残っています。尾根へ登って南へ縦走して行きますと一尺くらいの小さい竹と草が生えているだけの素敵なところへ出ました。ここは大海の肩です。北の方に兵庫槍が残雪に蔽われて真白に見えます。右に乗鞍が、左に鳥取県の東山や沖ノ山が聳えてなかなか深山的な眺望です。大海の頂上へ登りました。頂上には古い杭が打ってあります。私はそこらの草を急いで除けてみました。オオそこには一二八〇メートル七の三角点が三十年も風雨に曝されて落葉の下に眠っていたのです。そして今私の手によって数年ぶりにお陽様に照らされ嬉しそうにしているではありませんか。私は万歳を三唱しました。そして神戸山岳会員加藤文太郎と書いた小さい杭を打込みました。大海の南の尾根は遠く延びて兵庫御嶽へつづいています。また私はこの尾根のスズ竹の中へ入って行きます。二間くらいもある竹が隙間なしに生えているのですから方角はわからぬし、ラッセルするのに大変力がいり腕も足も非常に疲れます。ところどころ大きな木も生えています。この中を三時間余も縦走して御嶽の端に取付く前、竹を焼いて今ヤッと植林したばかりの東側の山腹へ出ました。それを五町くらい進んで尾根へまた登り縦走して行くと道がありました。このときはほんとに嬉しかったです。それを進んで午後五時半道仙寺の頂上へ登りました。岡山県の禁猟区の杭と兵庫県の国有林の杭が打ってあります。実にこの頂上こそ海抜一三四四メートル六の標高を有し、兵庫アルプス南方の重鎮兵庫御嶽の絶頂であります。オオそこには三角点が苔むしているではありませんか。私は貧弱な杭をまた打込んで、万歳三唱をしました。かく今日のコースはこの思わぬ道があったため大変助かったのです。そして無数の山を眺めながら愉快に下って行きます。六時半頃西河内の宿屋へ着きました。眺望のよかったこと、大変苦しかったこと等疲れた頭の中を走って行きます。そしてこの夜は静かに更けて行きました。
 三十日午前六時兵庫乗鞍へ向って宿を出ました。川を下って川井で河内の方へ他の川を遡って行きます。気持の悪い雲が一一〇〇メートル以上を包んでしまい、もしや雨ではないかと不安です。乗鞍は麓から一〇〇〇メートルの線くらいまで草原で道がなくとも楽に登れます。ここに防火線が設けられてあります。この上も植林してありますから割合楽です。次から次へと低い雲が山を廻って走り去って行きます。一二〇〇メートルくらいからスズ竹の中へ入って登って行きます。ところどころ残雪と大きな木があります。オオ雲が晴れました。三室山の頂きが見えます。午前十時半、俚称ショー台の頂上へ登りました。国有林の杭が打ってあります。そこは実に海抜一三五八メートル兵庫県第二の高峰乗鞍の絶頂であります。そして三角点はそのまま山の高さを保っています。オオ見えるではありませんか、氷ノ山が、真白い槍が、鷲羽と白馬が、扇ノ山―鳥取の群山が、大渓谷、大森林、大竹森が―とても雄大な眺望です。私は杭を打込み万歳を三唱しました。そしてここから縦走する予定でした海抜一二四四・二メートルの俚称三国ヶ山は大森林やスズ竹の突破がなかなか苦しいのであきらめて下山することにしました。乗鞍よ、再度相見ることはいつになるだろうと、別れを惜しみながら下って行きます。そして河内へ帰りました。ここから峠を越して国道へ出ます。この峠に登る道は地図と変って左の谷へ入ります。しかし同じ尾根へ登りました。この道は荒れ果てていますが、なかなか深山幽谷的なところです。去年十二月三十一日雪を眺めて歩いたあの国道へ出ました。そして引原川を上って行きます。午後六時頃戸倉の宿へ着きました。もし三国ヶ山へ登っていたらここまでくるどころか、山中へ一泊しなくてはならなかっただろう等と思いながら夢の世界へ沈んで行きました。
 五月一日、午前六時宿を出て、兵庫焼へと深い谷を登って行きます。ここの谷は数年前木を切り出した道が名残りをとどめています。それで大したラッセルもせずに大雪渓につきました。四ツ這いになって左の谷へ入って行きました。そしてスズ竹の尾根へ登って北へ縦走し午前九時半頂上へ着きました。そこらの落葉を取り除けてついに三角点を探し出しました。オオこれが海抜一二一六メートル四の俚称赤谷の絶頂兵庫焼の絶頂です。私は万歳と叫ばずにはいられませんでした。北には穂高から槍への残雪は近いだけ一層綺麗に見えます。右へ但馬の妙見が、左へ扇ノ山が、東に兵庫県の群山、西に鳥取県の群山、南に乗鞍、御嶽等が絵のように淡く見えます。私は杭を打込んで雄大なこの眺望と別れて淋しく同じ谷を下って行きます。十一時戸倉へ帰りました。そして山々へ名残りを惜しみつつ若杉峠へ登って行きます。あの焼はノロリとした大きな頭を後の方に見せています、私は帽子を取って頭を下げずにはいられませんでした。そして播磨から但馬へと急に下って行きます。ここから八里くらいも歩いたことでしょう、私を乗せた汽車は午後九時五分、養父やぶ駅を離れて行きます。私はアア兵庫アルプスよ、四〇〇〇尺よ、アア御嶽よ、乗鞍よ、焼、また会う日までと泣かずにはいられませんでした。
(一九二七)
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兵庫槍―大天井―鷲羽登山







 五月二十八日、午前〇時三十九分私は山陰線八鹿ようか駅に下車し兵庫梓川を七里余も上って福定という村へ着いた。兵庫槍は前に大きく聳えて頂きにはなお雪が残っている。村から別れて深い谷へ入って行き右に水は少ないが、ちょっと高い滝と左に瀬のような滝が落ち合っているところから急に登って行く。ちょっと登り切ったところに立派な新しい堂がある。後には大天井が気持のよい頭を見せているし妙見もなかなか大きく見える。大森林の下を通って海抜四一三二尺もある峠へ登った、鳥取営林署、氷ノ山国有林の立札がある。驚いたことには両側の山へ道がついていることだ。これを槍へ登って行くところどころ頂上までの距離を量った杭が打ってある。途中に熔岩のような岩が出ているところへ登ると南を除くすべての眺望が開ける。なお登って槍頂上に着いた。ときに午前九時、頂上は三尺くらいの小さい竹が生えているきりで南には兵庫穂高から焼―乗鞍―御嶽等、西には東山等の鳥取群山、北には扇ノ山―兵庫立山―鷲羽―白馬―大天井等、東には妙見―須留ヶ峯―藤無山等遠く千町ヶ峯やスキーの山段峯までも見えて眺望雄大、鳥取営林署の「火を注意せよ」……等書いた立札が倒れている。二、三の杭には登山者の名前が書いてあり、そこには海抜四九八三尺の綺麗な三角点がある。神戸山岳会会員加藤の杭を打って万歳三唱、雄大な眺望に名残りを惜しみつつ下る。大久保から兵庫大天井へ向って牧場へ行く広い道を登る。がらんとした大きな家を通って八五〇メートル以上の野原に出る。これが夏は牧場、冬はスキー場だ。これを横切って急に登る。道はなくとも短い草があるきりで楽だ。登り切るとちょっと尖った頭でこの向うが絶頂だ。それへ登ってちょっと広い頭を歩き廻って三角点を見つける。ときに午後一時、海抜四〇三〇尺、兵庫大天井、鉢伏の絶頂だ。熊次村の人がスズ竹の子を取りにきている。そこで附近の山の高さと三角点の話をしてやる。名前を書いた杭を打って、小代村へ向って八反滝という谷を下る。初めは楽だが下の方は名前の如く滝また滝でそのたび尾根へ登らねばならぬからなかなか時間がかかった。しかし今日は氷ノ山に道があったため楽に午後四時頃秋岡という村の宿へ着くことができたのは拾い物であった。
 二十九日、午前六時頃宿を出発し兵庫高瀬川を二十町くらい遡って田のある山へ登り深い谷へ入って行く。ここは木を切って小さい杉が植えてあるので楽だ。尾根を登り切って縦走して行く。頂上は長くなっていて絶頂がどこかわからぬ。三角点を探しながら高そうなところの落葉を除けては進むのだから大変時間がかかる。一番北の端へ行ってみたが無い。行き過ぎたような気がするから後戻りして兵庫白馬へつづいている尾根だと思うところを探し廻ったが無い、兵庫白馬へも行きたいと思っていたのであきらめてそこへ杭を打ち尾根を下って行った。ところが下ってみると尾根が違っていて谷へ下ってしまっている。そこでこの谷を登って本尾へ出て三角点を探したところが違っていたのでまた鷲羽へ向って登り、頂上付近を探しついに三角点を見つけた。このときの嬉しかったのは氷ノ山に道があったとき以上だ。一番高いところではないがこれが兵庫鷲羽俚称三ツヶ谷の頂上海抜四〇九〇尺の三角点だ。ときに十二時過ぎ、予定と狂うこと三時間以上、杭を取りに行ってここへ打込んだときは午後一時、白馬俚称仏ノ尾へ登ればいかにしても今日中に駅へ出られそうになく三角点もないので、ついに思い切って大きな雪渓を辷りつつ下り佐坊へ出で、鍛冶屋から芳滝を通って小長辿に行きここから八田村へ越す峠へ登って行く。肥前畑へ下る前に眺望開けて扇ノ山と立山すなわちブナの木の尾根あの雄大な高原が見える。去年あの山中を歩き廻ったかと思うと感慨無量、しばし見入らずにはいられぬ。黒部川を下って国道を蒲生峠に登り荒れた道を塩谷に下り、岩美駅へ午後九時半まで歩いた。午後十時十三分汽車は京都へ向って駅を出て行く。
(一九二七・七)
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縦走コース覚書








――山から山へ

 私の経験と地図を参考にして、私がいいと思う日本アルプスその他の縦走コースの日数を書いてみましょう。



 神戸午後九時三十五分の急行に乗れば千垣へ翌午前九時二十六分に着きます。第一日、ここから立山地獄を見て室堂へ八時間、第二日、浄土―雄山―別山と尾根伝いに劔岳にいたり長次郎谷―劔沢を経て池ノ平小屋へ十三時間、弁当を四食分持って行くくらいで充分、劔沢で右岸を通ること、第三日、小黒部を下って祖母谷温泉へ八時間、道は少しわかり難い所もありますが温泉までなら楽です。第四日、百貫山―不帰岳かえらずだけ―清水岳等を経て白馬小屋へ十二時間くらい、ここは経験がありませんが、途中に小屋もあり危険はありますまい。第五日、杓子と鎗へ往復し、御花畑と雪渓くらいを見て引返し大蓮華を縦走し蓮華温泉へ十二時間、乗鞍大池小屋に泊っても明日は楽です。第六日、姫川を下って大野村から自動車に乗り糸魚川いといがわにいたる。後親不知おやしらずの嶮を見、市振いちふりで午後五時三十七分の汽車に乗れば、金沢へ同九時二分着、第七日、自動車を尾添川の出合で下りる。ここから尾添―岩間温泉を経て大汝へ登り室堂へ十時間、美女坂道を通らぬこと、第八日、御前岳へ往復し白山温泉へ下り白峰へ六時間、午後一時半の自動車で鶴来へいたり金沢あるいは寺井へ午後九時何分の汽車に乗る。神戸へ翌午前七時四分着、雪の割合多いところばかりで面白いコースです。



 神戸午後五時四十分の急行に乗れば、有明へ翌午前六時二十八分に着きます。第一日、徒歩で中房温泉へ五時間、温泉から燕小屋まで三時間あれば行けます。一浴して午後一時頃出発し燕絶頂にも行ってきます。第二日、大天井によって槍へ八時間、常念へ往復しても十四時間くらいで充分だろうと思います。第三日、穂高小屋へ七時間、第四日、上高地温泉へ七時間、一日で槍、穂高は縦走できますが、他のところは急いでもここだけはゆっくりと味いたいと思います。第五日平湯を経て乗鞍八合目の小屋へ十二時間、焼を越して行っても大差はないと思います。第六日、乗鞍頂上を経て石仏道を下り日和田へ八時間、第七日、継子岳を経て御嶽頂上へ十時間、第八日、黒沢口下山福島へ九時間、午後五時五十五分発の汽車に乗れば、神戸へ翌午前五時四十八分に着きます。このコースは全部人のいる小屋に泊ることができ、道も迷うようなことは殆んどありませんから、富士に登るくらいの支度で充分です。一週間で大きな山はまあすむのです。



 神戸午後十時三十五分の汽車に乗れば上松へ翌午前十時十四分着、第一日、ここから頂上宮田小屋へ七時間、第二日、早朝出発し剣ヶ峯―前駒―南駒と縦走して飯島へ十六時間、第三日、伊那町より高遠を経て戸台にいたり、弁当三食分を持って登り北沢小屋へ十二時間、第四日、仙丈へ往復し仙水峠から東駒に登り七丈の小屋へ十二時間、第五日、台ヶ原へ下り谷戸で弁当二食分を持って登る。権現岳避難小屋へ十三時間、第六日、八ヶ岳を縦走し本沢温泉へ八時間、一浴して小海へ下山、午後六時二十七分発にて小諸にいたり、荷物を置いて小諸発同十一時十分、沓掛着同十一時五十八分、第七日、浅間御来迎を拝し小諸へ下山、午前八時四十四分発にて長野へいたり、戸隠山麓一泊、第八日、戸隠の頂上を極め、辰野午後二時四十五分発にて神戸へ翌午前六時四十二分着、戸隠は知りませんが大したことはありますまい。
 以上は案内人無しの日数でリーダーがあれば二、三日は短縮できるでしょう。次に今年の予定を書いてみます。



 神戸午後五時四十分の急行に乗れば上片桐へ翌午前八時八分着、第一日、大河原を経て小渋温泉へ八時間くらい、第二日、赤石を極め大沢岳へ十一時間露営、第三日、聖岳ひじりだけへ往復し赤石に帰る。大聖寺平小屋へ十三時間、第四日、荒川より東岳へ往復し小河内を経て三伏峠小屋へ十四時間、第五日、塩見を経て間ノ岳を極め農鳥小屋へ十五時間、第六日、農鳥へ往復し間ノ岳、北岳を越して野呂川小屋へ十二時間、第七日、鳳凰を乗越し青木湯に下り穴山駅へ十四時間、午後九時三十一分発にて神戸へ翌午後一時九分に着きます。割合アッサリすみそうです。



 神戸午後五時四十分の急行にて出発、大町へ翌午前六時五十七分着、第一日、高瀬川を上って烏帽子小屋へ十一時間、第二日、三ツ岳―五郎―水晶等を経て鷲羽小屋へ十二時間、第三日、鷲羽―中ノ俣―北ノ俣を経て太郎山小屋へ十三時間、第四日、薬師を乗越し五色小屋へ十三時間、第五日、平ノ小屋を経て針ノ木、蓮華を極め大沢小屋へ十三時間、第六日、扇沢―祖父―鹿島槍等を経て大黒へ十五時間露営、第七日、四ツ谷へ下山し自動車で大町へいたり、午後三時五十分発に乗ると神戸へ翌午前六時四十二分に着きます。予定ですから必ずとは言えませんが、だいたい私なら行ける自信があります。
(一九二七・七)
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南アルプスをゆく









 七月十日午前八時十分、私の乗った電車は伊那大島の駅に着いた。私は今朝塩尻で北アルプスを今また電車で中央アルプスを見たので、一時も早く南アルプスを見ようと天竜川の吊橋を渡って部奈へ急に登って行く。汽車の疲れと五人ほどの登山者が半時間くらい前に行ったと聞いて急ぐので、なかなか苦しい。登り切ると西駒連峯の雄大な裾野が一目に見え、今までの苦しみを忘れる。部奈から道は曲り曲って少しずつ登って行く、柄山へ行く別れ道に茶屋が二軒あり、登り切って小渋川の谷が見えるようになるとまた茶屋がある。ここから少し下って行くと白諏神社の鳥居があり、うまい水が出ている。また登って行って赤石岳がちょっとみえる辺で北条坂というを急に下ってしまい、天理教の堂のあるところで小渋川を渡ってトロ道に入り、小渋川に沿った山間の景色を味いつつ午後三時頃大河原に着いた。丸川旅館というに休んでいると、あの五人の登山者がやってきた。それは早大山岳部の連中で、部奈からずっとトロ道ばかりをきたのである。そして赤石岳から白峯へ行くと言っていたが、高山越えをして荒川岳と東岳へ往復し、赤石岳へ行かず白峯へ行ったのだった。少し遅いが昼飯を食い、記念品を買って四時頃ここを出発し、小渋陽へ七時半頃着いて一浴し伸びてしまった。ここのおじいさんは耳が遠くせがれに先立たれたと淋しそうに語っていた。
 十一日、今日もいいお天気だ。しかし小渋川はちょうど梅雨後で水量激増し徒歩ができぬ。そこで小渋陽から少し引返し高山越えをしなければならぬのだが、私は高山の中腹から広河原へ下る道があると聞いたのでそれを行くことにした。午前六時頃小渋陽を出発し、板屋谷を横切り高山の中腹を巻いて次の谷の土崩まできたが、この川を渡って向うの山へ取付く道がわからない。そこでこの川をまっすぐに下ることにした。後には道は土崩の上を通って向うの山から広河原へ下るのだと聞いた。この川は小渋本流に出合うはこんな上流でも徒歩はできそうにない。仕方がないから、絶壁をよじ登っては河ところで、二つの大きな滝となっている、上の滝は二百尺くらいもあろうと思われる。この滝の右側の尾根を下り滝の下を横切って下の滝の左側を下って河原に下りたが、本流原へ下り、また絶壁を登っては河原へ下りの運動を数十回もやった。こうしてやっと広河原に着いたのは午後五時頃で、大変予定が狂い実に残念だが、疲れ果ててしまったので、広河原の小屋へ泊ることにした。幸いにもちょうど私が小屋へ着くと同時に、とても物凄い夕立が襲った。このときの雷はゴロゴロと一分間くらいつづいて鳴り、なかなか凄かった、だいぶ雨が漏ったが小屋のお陰で、びしょ濡れにならぬだけは拾いものであった。
 十二日、山は霧がかかっている。午前六時小屋を出発して予定の尾根をまっすぐに登って行き、二六〇〇メートル辺から山を巻いて赤石岳と荒川岳の鞍部へ出で大聖寺平へ下って行く。小屋は石室でちょっとわからぬが目印に小屋の右上の尾根へ柱が立ててある。なお下ると水がでている。聖岳往復中、余分の食糧を小屋に置いて出発し、赤石山蚕玉大神を祭った剣ヶ峰へ取付き、大きな東山稜を持った小赤石を乗越して海抜三一二〇メートル一の赤石絶頂へ午後十二時四十分に着いた。「大正十五年八月七日赤石絶頂を極む九十翁大倉鶴彦」と書いたのと植物愛護のことを書いた硝子入の立札が立ててある。ここから聖岳は近いのだが、霧がかかっていて谷のみしか見えぬ。名刺を置いて国境線を聖岳へ向って南へと急ぐ、大沢岳へ取付く前国境線を左にそれ百間洞へ下り、後ガレを一気に大沢岳へ登る。登り切って縦走して行くと向うの尾根に羚羊がいる。オオイと声をかけても知らぬ顔して向うを向いているし石を投げてもじっとしていたが、私が急いで行くと谷へ素早く下ってしまった。霧がかかっていなかったら写真を取るのだったが、バルブでは取れない、私は口惜しかった。それから二つほど山を越して兎岳へ登った。三角点へ往復して聖岳との鞍部へ下るとき、少し霧が晴れて聖岳が大きく聳えているのを見た。一番低そうなところまで下って露営することにした。着のみ着のまま寝るのだから気楽なものだ、ときに午後七時四十五分。
 十三日、霧がかかって山は見えぬ、風もなかなか吹いている。荷物を置いて午前六時二十分にここを出発し道がわからなかったので、右側に絶壁を見下しながら尾根伝いに登って行く、風が強く合羽を取られそうだ。途中で道らしいものに出て、午前七時聖岳の絶頂に登った。海抜三〇一一メートルもあって南アルプス南方の重鎮だ。そこには御料局の三角点がある。そして聖岳の三角点はここから六町くらい東山稜を下ったところにあり、これへ行く途中、残雪の下からうまい水が出ている。霧は晴れぬがときどき雄大な渓谷を見せる。引返し大変苦しんで、やっと極めたこの聖岳に別れて下る。途中まだ羽根の白い二羽の雷鳥を見た。道は尾根の右側を巻いて姫小松の中を下って行く、露営地へ下り、荷物を持って一夜の宿に名残りを惜しみつつ兎岳―大沢岳―百間洞と急ぎ赤石岳へかかった。風雨は強くなり、身体は疲れなかなか捗らぬ。やっと赤石岳へ着いたのは午後五時四十分で、今日松高山岳部の連中が登った名刺が私が入れた罐に入っている。元気を出して小赤石―剣が峰と縦走し、ここの雪渓をまっすぐに大聖平へ下り右往左往して、やっと小屋へ着いたときは午後七時十五分であった。ここの小屋でも私は火をたくのに苦しめられ蝋燭の火を抱えたまま夕食も食わずに疲れて寝てしまった。翌朝シャツが少し焼けているのに気がついたほどである。
 十四日、山は霧が巻いて風も強いので、少し休んで午前九時小屋を出発した。荒川岳へ取付き少し国境線より東によったガレをまっすぐ登り、国境線へ出で縦走して御料局三角点のある前岳へ登る。もう霧は晴れて富士山をも見ることができ、眺望雄大、後方には赤石岳―聖岳―兎岳―大沢岳等高く聳えて昨日の縦走を思いては淋しささえ感ずる。荷物を置いて荒川岳へ向う、前には、東岳高く聳えてどこから登るのか見当がつかぬくらいである。北方に塩見岳―仙丈岳―駒ヶ岳―間ノ岳―農鳥岳等互いに譲らず、高く聳えているのを見ては痛快と叫ばずにはいられぬ。海抜三〇八三メートル二の荒川岳の絶頂へ午後十二時三十分に着いた。なお進みて登り、海抜三一四六メートルの赤石山脈最高峰東岳の絶頂へ着いたのは一時三十分であった。御料局三角点と小さい祠のような物があり、数百歩にして万次小屋にいたるとの立札がある。十二日早大山岳部の連中が登ったと書いた名刺があった。引返して荒川岳を越し前岳へきてみると、長野県庁の人々が高山越えをしてやってきた。私はこの大絶壁を有する前岳で、赤石三山と別れて淋しく国境線の尾根を下って行く。六町くらいきてから国境線を右にそれ北の方へまっすぐガレを一気に下ってしまい、なお進むと残雪がある。私はこの向うに道があるものと思って進み、ちょいと迷い引返すと山を巻いて行く道があったので、これを進んで高山裏まできたとき霧がかかって尾根を取り違え、また迷い山中を歩き廻っていると谷間で人の声がするので、オーイと呼ぶと返事があった。そこで勇んで道の無いところを急行で下ってみると、名古屋の二人と案内二人、道連れの二人、計六人の人が小屋のようなところで露営中なのだ。さっそく一緒に泊めてもらうことにしたが、こう道に迷って予定の狂うのにはほとほと困ってしまった。
 十五日、今日もいいお天気だ、午前六時三十分皆と一緒に出発し、道を教えてもらい国境に沿って進む途中、三組も学生連に逢った。小河内岳を越し三伏峠より十町くらい手前で北に向って、まっすぐ谷へ下ると峠よりくる道に合う。これを下れば中俣水源小屋がある。ここから道は山を巻いて本谷山へ登るのだが、道がわからなかったので、手前の山へまっすぐに登って尾根伝いに進み、道へ出て縦走して行くと東京方面の人が案内と二人で塩見岳を極め引返してきたのに出会った。森林を通り抜けて尾根を伝い午後五時四十分、海抜三〇四六メートルの塩見岳絶頂へ着いた。ちょっと霧が巻いているが、雄大な展望台で仙丈岳―駒ヶ岳―白峯三山と赤石三山を前後に見て眺望絶佳である。名残り惜しいがここを下る。北荒川岳の西側は凄く崩れて絶壁になっている。こんなところは多く羚羊の足跡を見る。道は三角点まで行かず右に北荒川を巻いて東側にあるのだが、私は三角点まできたので道の無いところを下って、最も低いところで露営したときは午後八時頃であった。
 十六日、今日もいいお天気だ。午前六時露営地を出発して尾根へ登り進めば道あり、国境線に沿いて森林の中を進み、大井川と三峰川の分水嶺附近へくると水が出ている。ここに小屋の跡があるが、小屋はわからなかった。これより御料局三角点のある三峰へ登れば眺望雄大、南方には赤石三山、塩見岳あり、近くは農鳥岳―間ノ岳―北岳の白峯三山毅然と聳え、昨年縦走した仙丈岳と駒ガ岳は野呂川の大渓谷を距てとても雄大に見える。登りて間ノ岳へいたれば、大河原で会った早大山岳部の連中の天幕がある。彼等は今北岳をすまし農鳥岳へ向ったと案内人が湯を沸しながら話してくれたので、私は急いで後を追って進み、ほどなく追いついたが、ガレを走ったため鼻血を出し、半時間くらい遅れてしまった。海抜三〇二五メートル九の農鳥岳絶頂に着いたのは午後二時であった。引返して間ノ岳へ取付く頃、東京高工山岳部の学生二人案内一人に会って、海抜三一八九メートル三の間ノ岳絶頂に帰ったのは午後四時前、少し休み早大生等と別れて北岳に向う。途中ヒヨコ三羽を連れた雷鳥を追い廻し写真一枚撮った。海抜三一九二メートル四の日本アルプス最高峰北岳の絶頂へ着いたのは午後六時三十五分であった、眺望雄大なことは無類であるが、だいたいに南アルプスは雪が少ないのは残念である。白峯三山とここで別れて淋しいが下らねばならぬ、白峯御池らしく見えた残雪へ向ってお花畑を一気に下ってみると、これは池ではない。なお下ればまた残雪があるが、これも御池ではないようだ、疲れ果ててここへ露営することにしたときは午後八時過ぎである。
 十七日、最後の日となってしまった。どうしても今日中に駅へ出ねばならぬと思うと忙しい。天気はとてもいい、午前四時半露営地を出発し、山の中腹を巻いて進むと道があった。これを一気に下れば白峯御池だ。残雪に蔽われているが、下の方は冷たい水が出ている。うまい、これからは道を迷うことはない、森林の中を一気に下って広河原小屋へ着いたのは午前七時頃で、朝飯を食い、残りの食糧を小屋へ寄附し川を徒歩して、先輩に教えて頂いた如く川を下れど道がわからぬため引返し、地図に書いて頂いた谷を登ればいつか道に出るであろうと思ってこれを登って行った。そしてやっと一〇〇〇メートル以上も川より登り頂上附近の尾根へ出たが、ここでもどうしても道がわからなかった。ここで九州大学医学部の学生に逢って道を聞けば、川を渡って川を上り十町くらいまで行って谷を登るとのことであった。幸いに私は山中をかく一〇〇〇メートル余も迷って充分山へ自信を持つことができ有難いと思っている。これより高嶺に登ったときは午後十二時三十分で賽ノ河原へきて石仏会の名簿に名前を書き、時間があったら地図の観音岳へ往復する予定であったが、遅いので止むを得ず下山することにした。途中小屋に立ちより五色滝を過ぎ、青木湯に向って一気に下る途中二、三の登山者に出会った。その後ちょっと砂防道に迷ったが、無事青木湯へ着いたのは午後五時であった。一浴して六時にここを出発し、鳥居峠に登り一気に発電所のあるところへ下り、河原をドンドン進んで八時三十分、やっと祖母石村にいたり、荷物自転車に乗って韮崎に向った。そして私の乗った汽車は午後九時頃駅を離れて行く。私はああ南アルプスよさらば、また会う日までと泣かずにはいられぬくらいだった。私は今振り返ってみるにかかる長いコースを、ただ一人十日余の食糧を持ち、しかも随分迷い廻ってなお八日くらいで縦走し得たということは、神のお守りかまことに感慨無量で淋しさをさえ感じた。
(一九二七・九)
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山行記









 私は八月七日から高瀬入―烏帽子小屋、三ツ岳―五郎岳―赤岳より水晶山と赤牛岳へ往復、鷲羽岳―三俣蓮華小屋、三俣蓮華岳―中ノ俣岳―上ノ岳小屋―薬師岳―五色ヶ原小屋、針ノ木峠―大沢小屋、扇沢登り鹿島槍ヶ岳―八峯、五竜岳、八方尾根下り四ツ谷へのコースを一人でやりましたが、南アルプスに比して人のいる小屋が多く大分楽で雪もあり眺望もよく面白い山行でした。しかし八月であったためか五色ヶ原の針ノ木峠道の外、登山者には一人も会いませんでした。私のように変なコースを一度にやる人はなく赤牛岳でも便利が悪いためか、今年はただ法政大学の連中二人と私だけしか行かなかったようです。
 私は大町対山館を午前八時に出発し、途中葛ノ湯で半時間ほど温泉気分を味い十二時三十分に濁の小屋へ着いた。ここの主人はこれから烏帽子の小屋までは四時間から八時間くらいかかる、最初の日に無理をすると後で困るからぜひここへ泊れと言いながらお茶を出してくれた。私が昼飯を食っていると京大の連中二人が案内一人を連れて北鎌尾根から帰ってきた。私が京大の人が奥穂高でやられたねと言ったら誰だろうと大変心配し、そんなことなら上高地へ下ったらよかった。今から引返そうかと言ったが、そこに長野かどこかの新聞があって大阪高工の某と書いてあったので、こんな人は知らないし京大の者ではないと言って安心して下ってしまった。私はここを出て河原でちょっと迷ったが、尾根に取付いてから三時間ほどで烏帽子小屋へ着いた。そしてただちに烏帽子岳へ向い半時間で烏帽子岳北側へ着き、そこから最初簡単に岩を登って次に岩を這って行く、その次の岩の横腹へトラバースする割目があるが、とても私には通れないのでこの岩のナイフエッジにぶら下がって進んで行った。その次の岩はわけなく登れる、これが絶頂です。別に道があるように思ってあちこちと探してみたがわからなかったので同じ道を引返しました。烏帽子の小屋には主人とおばさんと若い人と三人いました。私が今朝の電車できたのならなかなか早かったと感心していた、私は少し脚気でしたので心配していましたが、いつの間にか元気になっていました。ここの主人は南アルプスのことも三角点のこともよく知っていられてなかなか開けた人でした。そして八月に入ってから登山者がちっともないので、淋しく困っていると言うので、私が北アルプスはまだ二、三日は荒れると新聞に出ているので、登山者が無いのですと言ったら、それはけしからん、こんなにいいお天気だのに、少しも当にならぬ測候所なんかの予報を大きく新聞に出すから、我々はあがったりだと憤慨していた。烏帽子小屋から三俣蓮華小屋まではお天気もよくとても素敵な眺望のところでした。特に赤牛岳往復は三ツ岳、五郎岳と薬師岳を両側に見、黒岳から遠く槍、穂高連峰―東鎌―笠ヶ岳等と五色ヶ原より立山連峰、白馬から針ノ木、蓮華にいたる後立連峰を前後に見て、とても他では求められぬ雄大な眺望でした。水晶山すなわち黒岳は本コースの最高峰で海抜二九七八メートルです。三角点は一番高いところではなくそこから北の方に一町くらい離れた向うの山の瘤のようなところにありました。鷲羽岳は池のある海抜二九二四メートル二の岳で地図鷲羽岳は三俣蓮華岳といい、蓮華岳と書いてあるのが双六岳だそうです。これは信州の名で飛騨や越中では地図の通りかもしれません。鷲羽岳へ登ってから鷲ノ池へ下ってみました。池にはもう雪も少ししかなく水もぬるいくらいでした。池の東側は絶壁で火口壁ということをはっきり現わしています。鷲羽岳を下る途中私はちょっと辷って尻尾の根を打ち小屋へ着いてからも痛くて困りました。その後も上ノ岳小屋までは往生しました。三俣蓮華小屋は鷲羽岳と三俣蓮華岳の鞍部で、黒部川と高瀬川の水源地にあります。ここには岩魚いわな釣のおじさんと強力のような人と若い主人と三人いました。私が今日赤牛岳へも行ってきたというには皆驚いていました。
 黒部五郎の小屋は三俣蓮華岳と中ノ俣岳すなわち黒部五郎岳との最低鞍部にあって水もたくさんあるし丈夫な小屋で素敵なものです。上ノ岳の小屋へ着く前雨が降り出したので予定は薬師岳まででしたが、変更して二時頃から尻尾が痛いので休養しました。ここの小屋も黒部五郎と同じく名古屋の人が寄附された立派なもので、上ノ岳絶頂と太郎山の中間にあり木が無いので風は強いところですが眺望のいいところです。水はどこにあるのかわかりませんでしたが、ちょっと下るとあるそうです。
 薬師寺の[#「薬師寺の」はママ]絶頂には祠があります。今のは二代目らしく一つ壊れて落ちていました。ここのカールはとても雄大です。今なお雪がぎっしりつまっています。スゴ乗越の小屋は丈夫なもので薬師岳から下ってスゴ岳へ取付く少し手前、西へ大きな尾根を出したところの森林の中にあり、水は少し離れているようです。五色ヶ原は今なお残雪でところどころ蔽われていてなかなか雄大です、小屋はザラ峠から南へ五町くらい離れています。七十歳くらいのおじいさんとおばあさんが番をしていました。日電の人夫がたくさん泊って噪しく登山者も五、六人いました。黒部五郎の小屋や上ノ岳の小屋からこの小屋へくるのは普通ですが神戸徒歩会の連中は途中スゴ乗越の小屋へ泊ったようです。ただの三人で中語ちゅうごを二人も雇っているように書いてありました。金持はちがったものですね。
 黒部川の渡しにはブランコのような吊橋がかかっています。ここには越中と信州の小屋が川を挟んであります。そこで日電の絵葉書をくれました。私は針ノ木峠から峰伝いに後立山を縦走しようと思っていましたが、峠にかかる前から雨が強く降り出したので大沢の小屋へ下ってしまいました。ここには対山館にいた松高生らしい人がいて私を見て随分早かったと感心していました。
 扇沢登りは道らしいものはありませんが、割合楽でした。種ヶ池には今年できた小屋があり、池には山椒魚さんしょううおがいると書いてありました。鹿島槍を下って道は峰を巻いています。下り切って、少し巻いて進むと雪渓があり、これから道は東から下りて来る向いの谷にあるので七月頃なら雪渓が延びてその谷の上へ道が通じているのですが、私の通ったときは雪渓が切れて取付き口は土崩れのようになっていたので、この谷を登るということに気づかず、雪渓を上下して山の中腹に道を求めていると、ちょっとすべってけがをし、引返し最後にこの谷を登るとわけなく道がわかってあんなに迷ったことが馬鹿らしいくらいでした。
 五竜岳へ着いてからも霧がかかっていたため、三角点から引返すことに気づかず、黒部谷側の尾根と本尾根とを間違え、これを上下し随分迷い、疲れてここへ一泊することにして霧の晴れるのを待った。夕方霧が晴れて初めて後戻りしていることがわかり、まことに残念でした。迷うと磁石が狂っているように思われます。海抜二八〇〇メートルの高所に着のみ着のまま寝たのですが、合羽を大沢小屋に乾しておいて忘れ一層寒く、一晩中凄い月が黒部谷を照らして立山の上へ移るまで、殆んど寝ないで眺めていました。これが私の青天井に寝た一番高所のレコードとなりました。
 十四日は六日ぶりにいいお天気になって立山連峰の眺めは素敵でした。日本アルプスその他山という山はことごとく見えました。八方の小屋は壊れていて別に日電観測所の小屋がありますが、許可なく入るべからずと書いてあります。八方尾根の道は平々坦々の広い道です。八方池の手前にまた、日電の中継の小屋があります。最後の下りはうねうねと廻り廻っているのにはいやになってしまいました。午後二時三十分無事四ツ谷へ下山しましたが山と別れることは淋しいものでした。



 九月二十四日は割にいいお天気で千垣行の電車の中から立山連峰が雄大に見えます。そして、射水いみず中学の校長先生が乗っていられて立山の話をされました。先生は称名ノ滝までお子様と二人で散歩においでになったのです。私は先生と一緒に称名川しょうみょうがわを遡って行きました。弥陀ヶ原側はところどころ崩れて大絶壁をなしています。雑穀谷の吊橋を渡ると道から少し離れていますが、小屋があります。ここで昼食をしました。称名ノ滝の少し手前にも、また小屋があります。ここで先生とお別れして川へ下って吊橋を渡り弥陀ヶ原へまっすぐ登ります。なかなか急峻です。しかしこの途中で称名ノ滝を見るのはとても雄大です。登り切って、見覚えのある広い道を急ぎます。もはや霧が巻いていて遠望はききませんが道ばたの草、漆の木等は綺麗に紅葉しています。今度は獅子ヶ鼻岩の方へ廻ってみました。少し下ると川があります。大きな苺がたくさんなっていますが急ぐので心を残しながら川を渡って登ります。鉄の鎖の釣ってあるところが二カ所ほどありました。獅子の鼻といえばいえぬこともないような珍な岩です。鏡石の小屋あたりまでくると、霧が晴れだして大日岳が谷を距てて大きく見えるようになりました。どんどん登って行くと前方に四人の登山者が見えましたのでエホーと声をかけますと返事がありました。大急ぎできてみると、四高の生徒で神戸徒歩会の藤田君もいました。室堂へ着いたのは午後五時で、おじさんとおばさんの二人が地獄谷の硫黄を掘っていました。おじさんは九月中はいると言っていました。四校生は飯をたき、私は弁当でしたが、同じように薪代八拾銭を取られました、皆で山や熊の話等をして大いに語り九時頃寝ました。連中はシュラフザックを持ってきていましたが、それでも寒く夜中に起きて火をたいたりしたと言っていました。私は夏より一着余分に服を持ってきましたので、割に温かでしたが手だけは少し寒かったです。
 二十五日午前三時頃私が起きますと連中もすぐ起きてきました。それから火をたき飯を食って四時半頃私一人で出発しました。雄山と浄土山との鞍部へ登った頃はもう全く明るくなっていました。荷物を置いて急坂を登ります。御来迎を気にして急ぎましたが、神社のところへ着くともう太陽は雲から半分出ていました。それはあまりいい御来迎ではなかったです。神社には夏きたときとは全く違って石が一ぱい詰めてありました。北アルプス槍、穂高よりこちらの山は割にはっきり見えましたが、白山、乗鞍、御嶽、駒連峰、南アルプス、富士等は薄黒く見えるのみで夏見たより貧弱でした。しかし別山中腹あたりの紅葉だけは素敵でした。雪はもうどこにも少なく浄土の雪渓が少し残っているだけです。雄山を下る途中四高の連中が登ってきました。私はそこでお別れをして浄土山へ登ります。ここの雪をかじってみましたがとても固く氷のようでした。五色ヶ原は眼下で雄大に見えます。縦走路は割に急な登り下りとなっています。鬼岳を下る途中エホーと声をかけてみますと案外にもザラ峠から返事がありました。大急ぎで下ってみると人夫が三人待っていましたので一緒に立山温泉まで行きました。途中両側の山が崩れて大絶壁になっているところがたくさんあります。立山温泉へ十一時頃着いて一浴し十一時半頃ここを出発しどんどん下って行きます。この道は内務省で広くするため大工事をやっています。藤橋へは午後三時過ぎ着きました。四高の連中はまっすぐ弥陀ヶ原を下ると言っていたので競争をしようと言ったら、駄目ですと言っていたが、やっぱり私の方が早かったのです。千垣へ着いたのは五時でした。それからあのいつも変らぬ富山市電に乗りました。もう今は立山にもたくさん雪が積ったことでしょう。一度雪の立山にも行きたいものです。



 十月十六日朝、大町行の電車の中からアルプスが見えます。常念山脈には雪があまり降っていないようですが、鹿島槍あたりより向うは新雪で真白です。私は柏矢町へ下車して、一ノ沢を登ります、道は道標があって安全です。両側の山は上から下まで紅葉していてとても素敵です。川岸は地図と違って絶壁のところは殆んどなく、主に川の北側を行きます。最後に道が二つになり河原に沿って行く方が安全のようです。私は尾根の方を行きましたが、ところどころ崩れていました。もうここらの木々は新雪で飾られています。登り切ったところに常念小屋があります。しかし錠がかけてあって入れません。常念頂上へ登って行く途中、松本二中の先生岸様に出会いました。鳥川の本沢を登られたのです。そして今日中に中房へ下ると言っておられました。常念の頂上には祠があります。その前に小さい地蔵様が置いてありました。雪がばらばらと降ってくるのみで、楽しみにしていた前の槍、穂高連峰をさえ見ることができぬのは残念でした。常念を下って岸様を追って行きます。道はたいていの山の西側を巻いています。二ノ俣に小屋は二カ所あって開け放しです。大天井岳の絶頂に登ってみましたが何も見えません。ただ三角点が雪の降るのに、知らぬ顔をしているばかりです。喜作新道の別れ道にきました。すると案外にも岸様の足跡が槍に向っています。さては槍に行く気になったのだなと思って、私も元気になり大急ぎで追って行きました。やっと西岳の小屋へきてみると岸様は薪を集めていました。よく話してみると道を間違えてここへきたとのことです。私がここへ着いたのは午後五時頃で小屋は開くようになっていましたし、茣蓙ござや天幕等もあり、火も難なく焚けましたので、着物等を乾かし九時頃寝ました。夜は風も強く雪も少しずつ降っているらしい音がして不安でしたがよく寝られました。
 十七日午前五時過ぎ起きて外へ出てみると、ちょっとのあいだ雲がはれて雄大な槍、穂高連峰が見えましたし、雪も思ったより積っていないので大変嬉しかったです。岸様は一日で下山の予定で飯を持っていませんから、私の残りをおかゆにして一緒に食い、七時過ぎここを出発しました。途中空腹と雪に悩まされました。一つは私が今日から新しい靴を履きましたが、これが大変重いのも原因だったのでしょう。ようやく持っている菓子や水で元気をつけ、殺生小屋へ着いたときはほっとしました。荷物を置いて槍へ登りますと人の声がするので、よく見ると槍を三人の人が下りつつあるのです。すぐエホーと声をかけながら元気を出して登りますと、彼の登山者は槍肩の小屋へ入ってしまいました。槍は雪が少しありますが凍っていないので難なく午前十一時頂上へ登ることができました。北の方や常念山脈は雲に巻かれて見えませんが、南の方は晴れていて穂高連峰の雄大なのには驚きました。乗鞍、御獄や白山、笠も少し見えました。しかもこんな雪の降りつつある日本アルプスを見ることができ、ほんとにきた甲斐がありました。槍ヶ岳の祠は新しいのができていて中に名刺入の箱がありました。槍を下って肩の小屋へ行きました。先の登山者は法政大学の角田様ともう一人案内が一人の三人でした。お腹がぺこぺこなので、早速飯を恵んで下さいと頼み、大変御馳走になりお陰でやっと元気になりました。それから殺生小屋に帰り荷物を持って大急ぎで下り、大槍の小屋も過ぎ槍沢の小屋で靴をかえ、一ノ俣の小屋を通ってどんどん下りました。上高地の紅葉は少し遅いようですが、それでも綺麗でしたし、唐沢の屏風岩も雄大に見えました。徳本峠へ登る頃はまた空腹になりましたが、水で元気をつけ午後五時半峠の小屋へ着きました。人がいましたのでパンを食い、記念品を買って提燈ちょうちんの火で島々まで急ぎました。やっと九時五十分島々駅に着いたときは嬉しかったです。
(一九二七・一一)
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冬の氷ノ山と鉢伏山







 二月十一日、午前零時三十分、私は山陰線八鹿駅に下車しました。あいにく雪が降っています。関の宮の堂で七時頃まで寝ましたので、山麓の大久保へ着いたのは十一時頃でした。さっそく鉢伏へ登る気で輪カンジキをはきスキーを引張って出発しました。雪が軟かいので輪が大変沈んで歩行が困難です。やっと牧場まできましたが、スキーは下手だし雪も止みませんので頂上へ登る元気が出ませんでした。引返して村に近いところでスキーの練習をし、午後五時頃宿へ帰りました。この日姫路スキーの連中が別宮の方から案内を連れて鉢伏へ登り、六時頃下りてきました。なかなか苦しかったそうです。
 翌日午前八時頃私は氷ノ山越えへと向って出発しました。もちろん途中で引返す予定で弁当も持たず登りましたが、割合天候もよく山へ一つも登らぬのも残念だと思って、つい登ってしまいました。途中ブナの木も樹氷で綺麗に飾られていますし、ボサも殆んど雪の下なので気持よく歩けました。頂上には三角点の台ができています。去年の春登ったときはありませんでしたから再度測量しているのだと思われます。頂上は木がないので、雪がクラストになってカンカンです。ここへ着いたのは午後二時、雪のないときに比して、三倍以上も時間がかかっています。頂上の眺望は雪があるため一層雄大で、なんといっても県下第一の山です。帰りは同じ路を引返す予定でしたが、東尾根が楽そうなのでまっすぐこれを下ることにしました。海抜一一〇〇メートルくらいまでは割合楽でしたが、それからはボサが多く、スキーが下手なのでなかなか時間がかかりました。最後に尾根から別れて、奈良尾というところへ下る谷へ入りましたが、これはひどい谷で、絶壁のところがあったりして、大変苦しみ空腹と疲れでフラフラになって村へ下りたときは真暗でした。この村の農家に入ってめしを食い、やっと人心地がつき、午後九時大久保へ帰りましたところが、私の帰りが遅いので宿の人が大変心配し、村人に峠の方へ探しに行ってもらっているとのことでした。なんという親切なことでしょう。私はほんとうに嬉しく思いました。やっぱり山の人です。姫路スキーの連中は天候がよくなったので、明日案内を連れて、氷ノ山へ登ると言っていました。翌日私は午前八時姫路スキーの連中が出てから鉢伏へ出発しました。牧場へ出て鉢伏の急斜面を登ろうとしましたがなかなか登れません。そこでズーと西の尾根へ取付き峰伝いに鉢伏へ登りました。今日はよいお天気で、一層山が綺麗に見えました。頂上の少し手前で森林に入り、それを抜けるともう後の方に三ツヶ谷を越して扇ノ山が見え三ツヶ谷と仏ノ尾の鞍部にブナノ木ノ尾が現われてきました。氷ノ山は牧場辺からズーと見えますが、ここで見ると一層雄大です。そして驚いたことには、あの白耆の大山が真白に尖って雲のように見えることです。頂上に着いたのは十二時で、鉢伏の尖った支峰の頂上には、姫路スキーの鉢伏、氷ノ山縦走記念と書いた杭が打ってあります。ここからは妙見山や蘇夫岳もなかなか雄大に見えます。下りには急斜面を殆んど尻で辷ってしまいました。牧場を通って元の道を村へ下ったのは、午後二時で鉢伏へ登るのでもこんなに長い時間かかりました。冬はなかなか夏のように早く行けません。どこでも夏のように寝られませんから、スキーが上手にならねば思うように山へは行けないことがわかりました。食糧も冬は寒いため夏のような物では駄目なことがあります。その後私は親切な村と別れて淋しく歩きつづけました。姫路スキーの連中は早く山を下って、一緒に自動車で帰ろうと言っていましたが、ついに途中でとまったのか、私の乗った午後八時五十二分の汽車には間に合いませんでした。
(一九二八・三)
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春山行









 十八日午前二時半私は山陰線浜坂へ下車しました。ちょっと宅へよって五時頃ここを出発し、岸田川を遡り菅原というおしまいの村に着いたのは十時過ぎでした。お天気がよいのですぐ昼食をして、仏ノ尾へ向います。この山は菅原の南にある約一二三〇メートルくらいの山で、菅原のすぐ前のカンバという尾根を登って行きます。この尾根を登り平らになったところで、村の人が炭を焼いていますから、そこまではスキーをかついで楽に登ることができます。それから五町くらい行って西の方へ小さい沢を一つ越しすぐ取付いた尾根をまっすぐ登り、午後二時頃頂上へ着きました。私はこの山へは去年の五月、登れなかったので、これが初めてです。南から東へ三ツヶ谷、氷ノ山、鉢伏、滝川、妙見、蘇夫等が小代谷を距てて大きく聳えています。西の方は少し林にかくれますが、広い高原の向うに扇ノ山が雄大な尾根を左右に張っていて素敵です。二月頃はどこでもラッセルに苦しみますが、今は雪がしまっているので随分楽です。下りはよくころびましたが、それでも早く、カンバへ下ったのは三時頃でした。
 十九日、今日は扇ノ山へ登って、北尾根をズーと下の村へ下る予定で、午前七時に出発し、地図に道が書いてある、九一一メートルの三角点のある青山という尾根を途中まで登り、右の谷へ入ります。谷を上ってちょっと行ったところで、村の人が炭を焼いていますから、そこまではスキーをかついで行きました。そこから谷を行く予定でしたが、気味が悪いのですぐ右の尾根へ登ります。この尾根はズーと下の方へ延びた石小屋というなかなか急な尾根で、二〇〇メートルほど登るのに一時間半ほどかかりました。登り切ってから割合楽で、菅原の人が烏ヶ丸と言っている扇ノ山へ着いたのは十一時でした。頂上は木が少ないので、眺望はとても雄大です。ただ春霞のため伯耆ほうき大山だいせんが見えなかったのは残念でした。扇ノ山を下ってすぐ北の山へ登ります。この山は私が肥前畑の人から聞いてブナノ木ノ尾という山だと言いましたが、これは間違いで実は煙がヅツコーと言うのだそうです。この山にブナ乱という鞍部があるからそれで間違ったのだろうと宿の人が言っていました。ここから一一〇三メートルまでは平坦な下りです。この独立標高点から右尾根を下り一〇一〇メートルくらいの山へ登ります。この山の東に九四六メートルの三角点のある草山があります。この三角点のある山を東ヶ丸といい、今登った一〇一〇メートルくらいの山を西ヶ丸というそうです。東ヶ丸から北側は畑ヶ平という草原で、ここらの人はいいスキー場だと言っていますが、傾斜がゆる過ぎます。私が東ヶ丸に着いたのは午後二時頃でした。畑ヶ平を辷って青下の上まで進み、ここでスキーをぬぎ村の人が木を切っていた尾根を下り、明日もお天気は大丈夫らしいのでまた菅原へ引返しました。
 二十日、今日は三ツヶ谷へ登るため午前六時頃出発し、カンバに登って西側へ沢を二つ越し、取付いた尾根をまっすぐ進み、国境に出る五町くらい前でもう一つ西の沢へ入ってこれを登りました。今登ったところ、すなわち仏ノ尾と三ツヶ谷との中間の小山は石切りという山だそうです。この石切りを離れて三ツヶ谷に取付きます。ちょっと急ですが九時半に頂上へ着きました。菅原の人は三ツヶ谷を青ヶ丸と言っています。眺望は仏ノ尾ほど木にさえぎられないため一層雄大です。三ツヶ谷を下り石切から国境に沿って進みます。途中一〇八六メートルの小山へ登ります。これは池ヶ丸というのだそうです。十一時これを越して扇ノ山の方へだいぶ進み、三角点のある尾根、すなわち青山へ向って下る予定でしたが、間違って昨日登った石小屋という尾根へ出てしまいましたので、ズーと下って菅原が真下に見えるところまで進み、そこでスキーをぬいで村へ下りました。宿へ帰ったのは午後一時で昼食後四〇〇〇尺の山々と別れて岸田川を下りました。



 十七日 一行大木、永楽両君と自分の三人。千垣駅午前九時十分、芦峅寺着九時四十分、出発十時四十分、藤橋十一時五十分着、昼食、午後一時出発、ブナ小屋五時弘法小屋着九時。
 第二日 出発午前十一時、松尾上手午後一時、姥ヶ石二時着、三時二十分出発、室堂着六時半。
 第三日 午前九時十分出発、一ノ越九時五十分、浄土十時四十分、二ノ越着十一時五十分、出発十一時半、雄山着午後零時二十分、出発十二時四十六分、別山乗越三十五分地獄谷四時五分、室堂帰着五時二十五分。
 第四日 午前五時十分出発、地獄谷五時三十五分、別山乗越六時五十分、三田平小屋七時十五分、長次郎出合七時五十分着、八時三十五分出発、熊岩十時十五分、長次郎頭十一時二十分着、十一時四十分出発、剱岳頂上午後零時三十三分着、一時出発、長次郎頭一時半、長次郎出合二時三十五分着、三時五十分出発、三田平小屋五時三十五分、別山乗越六時四十分、地獄谷七時十分、室堂八時五分。
 第五日 午前五時四十分出発、弘法小屋八時三十分着、十時十分出発、美女平午後二時三十分、藤橋三時五十五分千垣着六時。
 桑谷附近から雪がありました。しかし、堅いので靴のまま楽に歩けます。弘法小屋には毛布や、むしろや、鍋等がたくさん置いてありました。弥陀ヶ原はなかなか広いので霧に巻かれるとどこを歩いているのかわかりません。室堂にはだいぶ雪が入っていますが、莚や、薪がたくさんありますし、温度も最低華氏二十六度くらいで大して寒くはありませんでした。連峰の尾根は雪が消えて全く真夏と同様のガラガラ道でした。平蔵谷はなかなか凄く見えます。尾根も雪がところどころ付いているようですから、長次郎谷を往復しました。五色ヶ原の小屋はよく見えましたし、三田平の小屋も完全に出ていました。長次郎の頭からアンザイレンして登りましたが、この尾根に一つ大きな岩があって、その東側は急傾斜の雪渓になっているので、気持が悪くちょっと一人では危険なところだと思いました。スキーを持って行きましたが、雪が堅いので無くてもよいと思いました。


 五月二十七日 小雨、柏矢町午前六時出発、一ノ沢―横通岳二七六七メートルの三角点、午後三時頃、一ノ俣小屋六時。
 第二日 晴、午前五時出発、槍の頂上午前十時、南岳三角点午後十二時、一ノ俣小屋午後三時帰着。
 第三日 晴、午前出発、唐沢入、北穂の尾根午前十時、頂上十一時、唐沢三角点午後零時、奥穂の頂上十二時半、唐沢下り五千尺旅館午後七時。
 第四日 曇、午前六時出発、前穂午後十二時頂きにて四時間霧の晴れるを待つ、午後七時帰着。
 第五日 晴、午前六時出発、徳本八時、島々駅午後零時着。
 一ノ沢を登ると最後に雪渓が四つに別れます。一番南の谷が肩から出ているのですが知らなかったため、三番目の一番深い谷へ入って、横通岳へ登ってしまいました。一ノ俣を下ると滝がたくさんある滝沢を通ります。ここは五月頃最も悪いところです。一ノ俣小屋には毛布や蒲団がたくさん置いてありました。槍沢は赤沢山の下からずっと雪渓になっています。小屋は大槍も殺生も肩のも皆出ていました。横尾谷は屏風岩の下から雪渓で、北穂には本谷と唐沢を分けている尾根の上の方へ取付いて登りました。峰伝いは全く真夏と同様で楽に歩けました。北穂―唐沢―奥穂の距離は地図よりずっと遠いように思います。奥穂は北アルプス中最も大きい山で海抜三一七〇メートル以上あると思います。前穂は下から頂上まで雪が少しも切れないでつづいていました。
(一九二八・七)
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山と私









 私はしばしば山に登る。それは山がいつも私の前に立っており、私はただわけもなく、それに登りたくなるものだから。あながち「岩の呼ぶ声」に惹きつけられるというものでもない。私にはむしろ岩は多くの場合恐怖の対象物でしかあり得ない。「雪と氷を追って」私の若い血汐が躍るのでは更にない。「白い芸術」は私には余りに遠い世界に距っており、氷の労作アイス・ワークは私には肉体的にも精神的にも余りにも大きな負担であり、痛苦と屈服をのみ与えこそすれ、なんら戦闘意識といったものすら起し得ないからである。私には、私の山、一〇〇〇メートル級の山々の何物をも眼界から奪い去るひどいブッシュの中であってもいいのだし、また単に山々の懐ろ深く入りながら、かえって峰々の姿も見ないで谷から谷へと歩くばかりでもいいのである。
 私はたびたび山に登る。それは山がいつも私の前に立っており、私はただわけもなくそれに登りたくなるものだから。そしてそのたびに私は私の職務を休まねばならない。しかし私は誰かのように、「月給の奴隷ではないんだから」好きなときには休むというほど大それた反逆児? ではない。私の今の現実の生活は冷くあっても決して夢でもなく、道楽でもない。私が余裕のある人々の夢のままを追ったとき、そこには破滅の外の何物が待っていよう。
 私はしばしば山に登る、仕事を休んでまで。しかしその理由はいたって簡単だ。誰しもがなんらかの理由で休むだろう一年の五、六日を、私はただ山登りに利用するというまでなのである。日曜と休日をいかに組み合わすべきかは、従って、私の山行の企画における最も重要な鍵点である。
 山行の経済はまた私にとって相当の問題を提供する。しかしこれは他人の考えるほどには私にとって問題ではない。私は要するにごく簡単なのである。山よりほかに金の費い途を知らないのだから、それに、私の山行ではガイドやポーターといったものにいささかの支払いもなくてすむし、食糧にしろ他の道具にしろ普通の人から見ればごく簡単なものでよい。
 私はしばしば山に登った。が、多くの人々とともに計画し、登山したことははなはだ稀だ。私には独りで登山しても充分の満足が得られるのだし、殊更に他の人を交えてお互いに気兼ねし合う必要はないのだから。
 私はしばしば山に登ったし、また今後も登って行きたい。そしてとにかく私は信じている、山は、山を本当に愛するものすべてに幸を与えてくれるものだと。



 今、AとBの二人が、ある氷と岩との殿堂を攀じていると想像し給え。Aは百戦功を経たエクスパートであり、Bは初めて氷にアックスを揮うビギナーである。
 Aのステップは簡単で浅く、軽いリズムでドンドンと登って行くに反して、Bの不安は彼のステップを歩一歩深く切り下げさせ、慎重に慎重を重ねた重いリズムで徐々に登って行く。
 岩場においてもAのリズムはあくまで軽やかに、僅かのホールドに安んじて彼の体躯を進ませ、Bはあちこちとルートを考え求めて、安心のできるところに至って初めて自重しながら登高する。
 Aはエクスパートであり、常に落着いた心境に安住して軽い気持で登って行き、Bは同じく澄み切った心境にあるといえ、ともすればその一隅に潜むビギナーなるための不安に脅かされて、重い気持の圧迫から自重の上になおも自重を重ねさされる。このとき、――Aがもしエクスパートのパーティであり、Bがビギナーの単独行ででもあった際は一層――事実においては世の登山家たちから「独りで? 乱暴な!」との非難を避けずにはいられないものなのである。
 しかし、このように「安全性」の原点よりしてある人の山登りを観察し、それに対してなんらかの批判を下し得るものとして、考えて見給え、Aはこの際果してBよりも常に安全であり得るか、どうか? そして、Bはバランスの不足を補うべく、あれだけ自重して登っても、やはり、ビギナーであるが故のみをもってして、「無謀だ」としりぞけられねばならないのだろうか?
(一九二九・一一)
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山へ登るAのくるしみ







 ある年の二月に、ひどく吹雪の日のつづいたことがあります。ちょうどそのとき、Aは僅かしか与えられない休暇を利用して冬山へ登るため、立山の室堂へ泊っていました。Aは毎晩「今日は随分ひどく荒れたから、明日はきっといいお天気になるだろう」と考えながら、安心して眠るのでした。けれどその予想は毎朝、哀れにもくつがえされるのでした。やがて休暇も残り少なくなった三日目頃からAには会社のことが気にかかりだしました。その晩、Aは彼の母と、そして会社の課長の夢を見ました。
 Aの母は、彼の山行を非常に心配する人でした。それは彼が山へ登るために時折会社を休むことがあったからなので、決して世の多くの母親のように「もしもあの子が山で遭難するようなことがあったら」というのではありませんでした。またAの上役たる課長はほんとうに人格者で、殊に情に発達した人でした。かつて、Aが山登りに興味をおぼえ、非常に熱の高かった頃、僅かな休暇だけではとても辛抱ができず、計画的に会社を休んで、山へ出かけたことがあります。そのとき彼は欠勤届を腹痛として、休むと同時に出しました。もちろん会社内の人は、彼の不正な行為に少しも気がつきませんでした。やがて山から帰ってきたAはそしらぬ顔をして会社へ出勤し、コツコツと働いていました。そのとき課長がいつもの時間に見廻ってきて、Aに「もう腹具合はよくなりましたか」と心から心配そうに尋ねたものです。この親切な言葉にはさすがのAも「はあ」と言ったまま、良心の呵責を受けて顔を上げることもできませんでした。そして彼は二度とあんな悪いことはすまいと決心をしたのです。
 やがてその夜も明けはなれましたが、相変らず室堂の尾根は唸っております。けれども最早躊躇ちゅうちょするAではありませんでした。Aはこう思いました。「この茫々とした立山の雪原であるいは自分の一生も行き暮れてしまうかも知れない。けれど正しいと思う方向へ向って歩いておれば、倒れたとて何を思い残すことがあろう」とやがてAは室堂の出口の梯子を登って行きました。とはいえ、一歩戸外へ出ると物凄い吹雪はまともに吹き揚げてくるし、油で真黒だったスキー靴も、寒さのため瞬く間に黄色く変り、足の指がズキズキと痛みだしたときはさすがに彼もたじたじとしました。けれど次の瞬間彼は吹きあげてくる西風へ向って猛然と突進して行きました。睫毛は凍り、顔は強ばり、手の指は感じがなくなり、呼吸もくるしい。けれどAはひるみませんでした。谷に迷い、尾根を登り、長いあいだ一生懸命に闘った。そしてやっと姥ヶ石の附近まで下ってきました。その頃から天候は恢復しだして雪は止むし、風もだんだん弱くなってきました。やがて追分の附近へきた頃は霧も晴れて、雪雲が頭の上を盛んに飛んでいるだけでした。そしてAは無事に弥陀ヶ原を横断し、弘法小屋へ着きました。ここで彼はコッヘルを使用して遅い昼食をし、大急ぎでまた下って行きました。桑谷ではちょっと道を間違えてうろうろし、また材木坂の急斜面に時間をくわれましたが、難なく藤橋へ下ることができました。やっと安心したAは藤橋ホテルで久し振りに満腹して、動くのも嫌なくらいでしたが、明日は会社へ出なければなりませんので、また勇をこして暗い夜道を急ぎました。
 藤橋から少し下ったところは雪崩の跡で道が殊に悪くなっていました。芦峅でいろいろと小屋代の払いをすませて千垣についたときの彼は実に嬉しそうでした。千垣で電車を待つあいだ、Aが汽車の時間をしらべてみると南富山から富山駅へ行く富山鉄道がこんどの電車にうまく連絡しているので、いつも富山市電の遅いのに参っている彼は、これ幸いと直通切符を買って電車へ乗込みました。電車はなんらの事故もなく南富山へ着きました。早速Aは乗換えのため向い側の富山鉄道のプラットホームへ行きました。そこでAはしばらく待っていましたが、汽車がこないので変だなと思って改札口の方へ行って聞いてみると、「なんのことだ」汽車はつい先出たところだと言う。あまりのことに呆然としてしまった。なぜならこの次の富山発の汽車へ乗れなかったら、明日は会社に出ることができないからです。しかし「まだ時間はある。どうしてもその汽車に乗らなければならない」と思ったAは大あわてにあわてて富山市電に乗込みました。けれどもこの電車はそんなことはなんにも知らないので相変らず悠々としています。
 Aは、このときほど富山市電の遅いということを、つくづく感じたことはありませんでした。彼は車掌に駅までもう何十分かかるかと何度も訊ねたほどです。しかしまた彼は「あれほどひどい苦しみをして山からおりてきたんだもの、どうして汽車に間に合わぬことがあろう、神様だってお助け下さるに違いない」と思ったりした。やがて電車は駅前へ着きました。汽車はたしかに構内にいます。そしてAは電車から飛び降りると一目散に駅へ駈込みました。その刹那、汽車は「ピー」と汽笛一声―動き出したではありませんか。そして一生懸命に改札口へ殺到したAは、機械のごとくつめたい駅員にしっかとさえぎられてしまいました。
 そのときの彼の心の中はどんなだったでしょう。――
 彼こそ――一人で山登りはしますが――ほんとうは可哀想なほど――気の弱い男だったのです。
(一九二九.一一)
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冬/春/単独行









昭和三年十二月三十一日 快晴 茅野六・三〇 上槻ノ木一〇・〇〇 一二・三〇スキーを履く 夏沢温泉四・〇〇
 汽車が塩尻に着いた頃は空がどんより曇っているので心配したが、明るくなるにつれていい天気となり諏訪の高原はとても寒い風が吹いていた。茅野の駅に下りて、まだ夜の明けたのを知らない静かな街道を一人トボトボ歩いていると、初めての冬山入りの淋しさがしみじみ身にしむ。駅から泉野村小屋場まで定期に自動車が通っている。スキーをかついで新田のあたりを登っていると、それらしい自動車が下りてきた。小泉山の下で東の空に判然と浮んだ真白い八ヶ岳の連峰に驚きの目を見張る。この道の最後の村である上槻ノ木で温泉の様子を聞く。今年は経営主が変ったため番人がいないことや、温泉までの道も左へ左へと登って行くことを教えられた。僕は本沢温泉の方は一度歩いたことはあるが、この道は初めてなので心配していた。魔法瓶に湯を入れてもらって出発し、だいぶ奥まで木を引き出す馬の歩いた跡を伝う。左へ左へと登ったため、地図の道と離れて鳴岩川に近い方を歩いた。一四〇〇メートル辺でスキーを履き、一四六七メートルを乗越して地図の道に入った。スキーは五寸くらい沈み睡眠不足がこたえてくる。しかし積雪量が少ないので夏道がよくわかるし、後を振り返るたびに真白い南の駒や仙丈、さては中央の山々、北の御嶽、乗鞍等が次々に現われて慰め励ましてくれる。鳴岩川の対岸に温泉でもできるのか大工のノミの音がこだましてくる。エホーと声をかけてみたが返事がない。近いようでもなかなか離れているのだろう。谷が狭くなって両側の山が大きくなりだしたとき、一陣の西風がサーと吹いてきてタンネの森がジワジワとおののき、山はゴーと凄い音を立て、青空はすでに刷毛で掃いたような雲におおわれて明日の荒天を判然と示してきた。温度も急に下り、僕はなんだか身顫いするような不安に襲われた。だがそれから間もなく夏沢温泉に着くことができてホッとした。この温泉は地図で見ると峰ノ松目の北にあたる岩壁の所から、一、二町下らしい、ここからその岩壁がよく見えるから。温泉は障子のままにしてあるので風通しがいい。しかし森林地帯だからさほど強い風は吹かぬし、明るいので気持がいい。温度が低いので火は焚けなかったが、畳が敷いてあり、蒲団がたくさんあるので寒くはない。水は少し硫黄臭いが小川が前を流れている。積雪量は二尺くらいだ。

昭和四年一月一日 雪 温泉出発九・〇〇 夏沢峠一一・二〇 温泉帰着一二・三〇
 昭和四年の元旦は吹雪で明けた。予想はしていたものの山の中の一軒屋にいて雪に降られるのは淋しい。元気を出して夏沢峠まで行ってみる。道はよくわかるし危険と思われるようなところはない。スキーは昨日と同じく五寸くらい沈む、峠の頂きに雪が四尺ほど積っている。随分寒いのですぐ帰って蒲団の中に潜り込む。――今日は元日だ、町の人々は僕の最も好きな餅を腹一パイ食い、いやになるほど正月気分を味っていることだろう。僕もそんな気分が味いたい、故郷にも帰ってみたい、何一つ語らなくとも楽しい気分に浸れる山の先輩と一緒に歩いてもみたい。去年の関の合宿のよかったことだって忘れられない。それだのに、それだのに、なぜ僕は、ただ一人で呼吸が蒲団に凍るような寒さを忍び、凍った蒲鉾ばかりを食って、歌も唱う気がしないほどの淋しい生活を、自ら求めるのだろう。――

一月二日 曇 温泉出発九・三〇 二五〇〇メートルくらいの地点一一・五〇 温泉帰着一・〇〇
 今日もやはり天気が悪い。雪はあまり降ってはいないが風がなかなか強い。また峠へ行って硫黄岳の偃松帯まで登る。岳は霧や風と戦いの真最中で凄い音をたてている。一人では登る気にならない。トボトボ温泉へ引返す。近所にスキーを練習するような所はなし、しようがない。火を焚いてみようと思って温泉の前に積んであった薪を小さく割って積み重ね、紙を燃して一生懸命に吹いてみたが、ちよっと燃えるだけですぐ消えて黒くなってしまう。ローソクも相当燃してみたが火力が弱いのか、やはり駄目であった。これまでの夏期の登山では雨が降ろうが、風が吹こうが、一日だって同じところに停まったことがなかったので、元日は今日も吹雪がつづくのではなかろうかと思って、一番心細かった。しかしこの日は、冬山は夏のようにはゆかないということがわかり、だいぶ落着いてきた。戸棚には宿泊人名簿とキングの古雑誌があったので、それを読んだりした。

一月三日 快晴 温泉出発三・〇〇 夏沢峠五・〇〇 本沢温泉六・〇〇 夏沢峠八・〇〇 硫黄岳九・〇〇 横岳一〇・二〇 赤岳一一・一〇 夏沢峠一・四〇 夏沢温泉三・〇〇 上槻ノ木六・三〇
 夜中から星が光っている。八ヶ岳の頂きに立つ日がやってきたのではなかろうか、そう思うと何度も目が覚めてよく寝られない。早すぎると思ったが思い切って出発し、ランタンをたよりに峠へ急ぐ。峠ではまだ暗く風が強いので、シールをつけたまま本沢温泉へ下ってみる。番人がいたら御馳走をしてもらうつもりだったが、あいにく留守でがっかりした。峠からこの温泉までは森林帯でさほど危険でないが、スノウ・ボールが落ちるほど急なところが多く西側とは段違いだから、スキーのうまくない人はシールをつけて下ってもさほど時間は変らないと思う。しかし温泉附近はとてもいいスロープがある。硫黄岳から天狗岳への山稜がモルゲン・ロートに燃えだして素敵だ。急いで峠に引返し硫黄岳へ登る。相当上までスキーは使えるが、風が強いので昨日登ったところでスキーをアイゼンに変え、偃松帯へ入ってちょっと泳ぐともう雪は堅くなっている、アイゼンで気持よく歩ける。風はとても強いが、天気がいいので安心して登る。硫黄岳の頂きで初めて見た冬山の大観。それは僕には一生忘れることのできない一大驚異であった。頂きはとても寒いので長く立ってはいられぬ。急いで横岳へ向う。硫黄岳と横岳の鞍部では風のため二、三度投げ出された。顔と手の寒いことよ。スキー帽の上に目出し頭巾を冠り、その上を首巻でグルグル巻いているのに、風の強く吹いてきたときは痛いと思うほど寒い。顔と手は皮の物を使わなければ駄目らしい。横岳へ取付いてすぐ二カ所岩にかじりつくところがある。しかしどっちも低いし、落ちても安全なところである。横岳は殆んど東側ばかりを歩いた。さほど悪いと思われるところはない。横岳の下りで、新雪の急斜面を横切るとき、ミシッと言って大きな割目ができたので、ヒャッとして夢中で元の方へ這い上った。ここは今ちょうど太陽が直射していて深く潜るところであった。そこでこんどはズッと上の方を偃松や岩角を掘り出し、これを手掛りとして通った。この辺から見た赤岳はとても雄大である。鞍部にある赤岳の小屋は戸口に雪がつまっていて入れそうにない。風は止んでズッとあたたかくなってきた。そして午前十一時十分憧れの頂きに立った。三年前の九月一日に権現岳からここへやってきたとき、一月などにこの頂きに立てようとは夢にも思わなかったが、何と幸運なことだろう。昨日までの苦心はこれで完全に報いられた。さあベルグハイルを三唱しよう、歌も唄おう、四囲の山をもう一度ゆっくり眺めよう。そうして北の山を眺めていると、乗鞍へ向った先輩のことが頭に浮んでくる。今あたり乗鞍の頂きに立って、エホーと声をかけているのではなかろうか、何だかそんな気がする。早く会って乗鞍の話を聞こう、また八ヶ岳のよかったことを話そう。帰りに横岳の西側を歩いてみた。雪の着き方が少ないので楽だが、悪場のため、長くは歩けなかった。横岳を過ぎ硫黄岳へ登って、赤岳へ名残りを惜しむ、天気は依然として変らない。スキーを履いてから峠まで、ちょっとのあいだに何度も転ぶ。夏沢温泉へ帰って、すぐ荷物をまとめ、山を下る。アーベント・グリューエンに燃えた八ヶ岳の連峰が、いつまでも見送ってくれていた。



一月五日 晴 番所原八・〇〇 冷泉小屋一二・〇〇―一・〇〇 乗鞍頂上三・〇〇 冷泉小屋四・〇〇
 四日の夕方、僕は番所原へやってきた。この日R・C・Cの先輩らが乗鞍の頂上を極めて下ってきたのでメートルを上げる。
 五日は早朝から星が出ていた。しかし今日は冷泉小屋までだと決めていたので、ゆっくり出かける。金山平で松高の人にコースを聞く。鳥居の下の急斜面は雪が固かったので、スキーをぬぐ。冷泉小屋へ行く道と分れるところに赤旗を目標に登るべしと書いてある。赤旗は冷泉小屋に立ててあるのだがよくわからなかった。しかしシュプールが判然と残っているので、迷うこともなくラッセルも楽で案外早く冷泉小屋に着いた。そして行方不明になった人のあることを聞いて驚く。小屋にいた早稲田の人から、もし一人で登ってまた人々に迷惑をかけるようなことになるといけないから一緒に下山しようと言われた。僕は少し考えさせられた。しかし案外早く小屋に着くことができたのだし、天気がとてもよいので、今日中に頂上に登ることに決心し早稲田の人々を見送ってから頂上へ向った。
 小屋からちょっと登るともう森林帯を離れて、すばらしい斜面が頂上までつづいている。雪は風のためよく締っていた。シュプールを伝って難なく肩の小屋に着く。捜索にきていた二人の人の降って行くのを見送ってスキーをアイゼンに変えて頂上に向う。風はなかなか強いが天気はとてもよい。午後三時、頂きに立ちベルグハイルを三唱した。この方は乗鞍の連峰が遠く四ツ岳の方まで真白につづいていて、すばらしいスキー場をなしている。山の好きな連中があの辺をブンブン飛ばして歩き廻る時代も遠くないだろう。あたりは真白な一月の山が互いに美を競う。懐しい八ヶ岳の連峰もよく見える。肩の小屋から森林帯に入るまでスキーはとてもよく飛ぶ。ターンができないので、すぐ顔面制動をやる。森林帯に入ってからは傾斜が少し急になるので飛ばせない。小屋に帰った頃、八森山や八ヶ岳が夕映えに赤く輝いて嬉しかった。

一月六日 雪 冷泉小屋六・三〇 番所原一〇・〇〇 奈川渡一二・〇〇 島々二・三〇
 六日は吹雪で明けた。しかし僕は番所原の宿屋の人に暗い中から早く下山するようにと言われていたので止むなく吹雪をついて出発する。森林の下はスキーが下手なのでよく転んだ。鳥居のところはとても風が強かった。ここの急斜面はスキーをぬいだが、下の方はなかなかよいところだ。金山平から番所原まで傾斜がゆるいのによく滑って嬉しかった。



二月十日 雪 柏矢町六・三〇 山番小屋九・三五 一ノ沢一八〇〇メートルくらいの地点にて引返す五・〇〇 山番小屋一二・〇〇
二月十一日 快晴 山番小屋八・〇〇 柏矢町一〇・三〇 稲核二・三〇 沢渡六・〇〇
二月十二日 雪 沢渡八・〇〇 中ノ湯一一・三〇 上高地温泉四・〇〇
二月十三日 雪 休養
二月十四日 曇 上高地温泉四・〇〇 明神池七・三〇 一ノ俣小屋一一・〇〇 大槍小屋下二・三〇 一ノ俣小屋四・〇〇
二月十五日 曇 一ノ俣小屋八・三〇 槍肩二・〇〇 槍頂上三・一五 槍肩四・〇〇 一ノ俣小屋六・〇〇 上高地温泉一二・三〇
二月十六日 曇 上高地温泉八・三〇 沢渡二・〇〇 島島七・三〇



 鳥川橋から一里ほど登ったところに山番小屋がある。この附近は昨日降ったという新雪が五寸くらい積っていた。ここから十町くらい登ったところで炭焼道と別れて細い道を伝う。川を渡って、ちょっと行ってから峠の登り口がわからず一度引返したりした。この峠の下りからスキーを履く。ところどころ旧雪が残っている。川を横切る二つの橋は雪が積っているので馬乗りになって渡った。普通の人にはできない体裁の悪い方法だ。一ノ沢に限らず森林帯はウインド・クラストになるまではラッセルに苦しむ。ちょうど運悪く早朝星が出ていたのが禍いして雪が盛んに降り出し、昨日の新雪が堅くなっていないのでスキーが一尺くらいも沈むのだからたまらない。常念道と書いてある道標を辿り、だいたい夏道通り進んで、一八〇〇メートルくらいまで登った。もすこしで常念の登りにかかるのだが、ここへくるまでの予定時間はとうに過ぎて、予想は裏切られ、これからの登りに要する時間の予想ができなくなった。雪も止まぬし、風さえ強くなってきたので、このまま登っても常念の小屋に入れるかどうか疑問であり、一度も通ったことのない中山峠もあるので、ついに引返してしまった。僕が一昨年の十月十六日に常念の肩へ登ったときは雪の降っている日ではあったが、まだ夏道がわかるので大して迷わなかった。しかしそのときはズッと下の尾根に登ったから旧道を通ったのだろう、崩れたところがあって困った。また昨年五月二十七日はズッと奥へ入ってしまい、最後に谷が四つに分れていたので、右の一番大きな雪渓を登った。そのときは霧が巻いていてどこを歩いているのかわからなかったが、山の頂上で三角標石を見つけ、初めて横通岳に登ったことがわかった。その後今年の三月三十一日にここを通ってみた。このときも雪が降っていて見通しがきかなかった。谷が狭くなって川が完全に雪に埋もれてから左側の小さい尾根の根元に常念道と書いた布が枯木に結びつけてあった。これを過ぎてすぐ左から入ってくる小さい谷を登ったら、運よくこれが当っていた。常念の肩には大きな雪庇ができるように聞いていたが、もう落ちてしまったのか、問題にするほどのものはなかった。常念の小屋が出ているから、一人では不安だが、窓の位置さえ知っていればちょっと掘るだけで入れるだろう。中山峠の一ノ俣側は小さい谷でちょっとわからないが、地図の見当で当っていた。新雪期は悪い谷らしいが、雪が堅く、登りも思ったよりわずかなので何でもなかった。しかし二ノ俣側は思ったより谷が大きくスキーにはよさそうだ。二ノ俣の本流との出合の辺はスノウ・ブリッジがあって何でもなかったが、下の方は川が予想外に大きく流れているので悪いところをしばしば横へつりさせられて弱った。二月頃は川が埋るかも知れないが、もし埋らないならこの頃より一層悪いだろう。また赤沢岳からは底雪崩の凄い奴がたくさん出ているから、雪崩の方もなかなか油断のならないところだ。また中山峠を越さずに一ノ俣を下るとしても、滝のところで凄い横へつりをさせられ二ノ俣より危険かも知れない。五月に通ったときは柏矢町から一日で一ノ俣の小屋まで楽に行ったが、冬から春の間はちょっと困難だろう。
 いずれにしても新雪期はなかなか時間が長くかかるから、単に一ノ俣の小屋に行くだけで常念山脈に興味をもたぬなら、徳本峠とくごうとうげを越すか、沢渡さわんどを廻る方がいいと思った。徳本峠もときどき吹雪等のときに迷って霞沢岳の方へ行ったということを聞くし、吹雪がなくとも、新雪期はラッセルと登りに苦しみ、なお雪崩の危険も免れないのだから沢渡廻りが最も安全ではなかろうか。



 乗合自動車はたいてい稲核いながきまでしか行かない。スキーをかついで、あの道を歩いていると一月の乗鞍のよかったことが思い出される。あのとき早稲田の人は遭難した人を探してやろうという気がないのか、やむを得ぬ事情があったのか、すぐ山を下りてしまった。少なくともあの辺の人より早稲田の人の方が山をよく知っているだろうし、同じように登山をしている人が行方不明になったというのに、なんだか人情がないような気がした。しかし僕は番所原の宿屋の人に冷泉の小屋から追い出されてしまったが、乗鞍の頂上に登った後であったので幸いであった。
 沢渡の少し手前に家が二軒ある。そこで泊る。ちょうどあの時捜索に行った人の家であったので話に花が咲く。
 梓川伝いの道は馬車が通るほど広く、雪があってもときどき人が通うくらいで、今年はさほど悪いことはなかったが雪がウンと降ったときは雪崩の出る危険なところがたくさんある。しかしこの道は吹雪いても迷うこともなく、ラッセルも楽だし、途中ところどころに小屋があり、中ノ湯等は防寒具もあるうえ松本から一日でくるのも困難ではないようだから徳本峠よりズッと安心だ。中ノ湯の上の長い隧道を出てからは夏道は橋のないところがあって困ったが、ここも積雪期は夏道を避けて河原に下り、川床伝いに行けば安全らしい。狭い谷伝いを終って広々とした上高地に入ればもう心配はない。発電所の水の取入口があるので、ここへよって上高地の状態を聞く。積雪量は二尺くらいで、温度は最低摂氏氷点下十三度くらいだという。上高地温泉には下赤松の奥原吉次郎という爺さんが番をしていた。この爺さんは上高地に雪が降りだし、人々が山を下ってしまった後の長い長い冬のあいだを、一人で温泉の番をし、ときどき訊ねてくる登山者の世話をしているのだ。そして再び春がやってきて、上高地の雪も消え、人々がまた山へ登ってくる頃になると、温泉の裏の静かな山の中で、ただ一人木をきりながら暑い夏を過すのだという。
 十三日はあまりひどい吹雪ではなかったが終日つづいて、一ノ俣まで行くには差支えないと思ったが、常さんや発電所の水の取入口の人が遊びにくるので、ついのびてしまった。炬燵にあたって爺さんに山の話をしてもらっていると、山にきたことを忘れてしまいそうだ。



 早朝星が出ていたので、爺さんに頼んで早く出発した。暗かったため、六百山の裾でちょっと迷ったし、明神池に行く橋を渡って、池の奥の方へ入ってしまい、一本橋を渡ったりした。それでも河原に出てからは風で雪が締っていて思ったより楽であった。横尾の出合から一ノ俣の小屋までは地図よりだいぶ長いようだが、ちょっと高廻りをしただけで、徒歩は一度もしなかったし、岩場のようなところも歩かなかった。四月にはこの徒歩と岩場とで二月の二倍の時間がかかった。一ノ俣の小屋は炊事場の戸が開いていたのでそこから入る。積雪量は四尺くらいで思ったより少ない。水は近いし、炊事道具は置いてあり、蒲団もたくさんあるし、雪に埋れて入れぬということもないらしいので冬期の使用小屋としては完全なように思う。スキーを練習するにはちょっと不便だが、槍沢にも横尾谷にも近いので山へ登るにはいい地点だ。



 横尾の出合から一ノ俣まで、ラッセルと高廻りで少し悪いが、一ノ俣から上は一ノ俣と二ノ俣の橋さえ完全なら楽だ。これらの橋も雪溶期は流されることがあるようだが新雪期は大丈夫だろう。川は赤沢岩小屋辺から完全に埋っている。槍沢の小屋まではスキーが相当沈むが、この小屋から上は風が強いので雪がよく締っていてアイゼンに変えてもいいくらいだ。三、四月頃のように表面だけクラストになっていて、スキーは横辷りし、アイゼンなら一尺も二尺も潜る等という雪とは違うので、スキーの上手な人は槍の肩までスキーを使うことができるし、アイゼン党はアイゼンでドンドン登ることもでき、夏より楽だろう。雪崩は新雪のものがたいてい谷から押し出している。大喰岳と槍の肩から出たのは大きな奴で、大槍の小屋のちょっと上までも押し出していた。新雪期は雪の降っている日に出るらしい。小屋は槍沢も大槍も殺生も槍の肩もみな屋根だけは出ている。そのうち大槍の小屋は風が強いので一番よく出ていた。槍肩から吹き下ろす風の強いのには驚いた。東鎌尾根や横尾を吹いて行く音の物凄さといったら身顫いするほどだ。顔と手はどうしても皮の物を使わねばならぬと思った。鼻と口のところは呼吸をするので、それが凍って凍えそうだ。槍肩は西から吹き上げた風がすぐ槍沢へ吹き下ろすので、雪庇はできないらしい。槍の穂についている雪は凍っていないし、また雪崩を起すような軟かい雪でもなく、アイゼンでちょうどいいくらいに締っている。しかし傾斜が急なので手掛りのあるところでないと不安だ。それでほぼ夏道を右に見て、南向きの岩尾根を登り、頂上附近で夏道に上った。頂上は肩や槍沢等よりズッと風が弱く、長くいてもさほど寒くない。雪も少ししかなく、祠も三角標石も完全に出ている。子槍と大喰岳のあたりがときどき見えるだけで、霧のために冬山の大観は得られなかった。
 二月頃は快晴という日は一週間に一日くらいしかないようだ。しかし十四日と十五日に朝四時頃星が出ていたし、雪もちらちら降ってくるという程度であったから、晴天のうちかもしれない。
 槍沢の雪は僕の歩いた二日ともアイゼンでちょうどいいくらいに締っていたから、こんな日は雪崩の心配はないらしい。
 上高地は弥陀ヶ原のように凄く吹雪かないから、遊び半分に行ってもいいと思う。



三月十七日 快晴 千垣九・二〇 藤橋一一・三〇―一二・一五 材木坂頂二・四五 弘法六・三〇
 雪は千垣で二尺、藤橋で四尺くらいはあった。藤橋まで人の歩いた跡があるのでスキーはかつぐ。藤橋には土木工事の人がいつでもいるが、ホテルの番人は一、二月頃はいない。材木坂は森林帯だから危険はないが、天気がよかったのでスノウ・ボールがドンドン落ち、気味が悪い。スキーの下手な僕は三月の立山の嶮は材木坂ではないだろうかと思った。この坂を登りきってからは、スキーは一寸くらいしか沈まないので楽だ。富山高校の人が立山に登り、三日ほど前に下りてきたというシュプールが残っているし、積雪期は見通しがきくので道を迷うことは少ない。薬師から大日までの山がアーベント・グリューエンに燃えて素敵だ。弘法小屋は屋根がちょっと出ているだけで、南側の小さい窓から入る。毛布がたくさんあるので火は焚かない。水は小屋の中の炊事場に流れている。

三月十八日 晴 弘法五・四五 室堂九・一五 雄山神社一一・〇〇 弘法一・三〇―二・〇〇 材木坂頂三・四五 藤橋六・〇〇 千垣七・五五
 今日もいい天気だ。フライ饅頭をウンと食って出かける。雪はウインド・クラストになっていてラッセルは楽だ。鍬崎山がモルゲン・ロートに燃えている。天狗平で真白い雷鳥(目や嘴や尾の一部は黒いようだが)が白樺の枯木に止って連れを探して鳴いている情景は冬にはとても見られぬ。室堂の北側はスカブラになって土台まで出ている。この辺の積雪量は去年の五月(大木君、永楽君と来た)と変らない。一ノ越の少し下でアイゼンを履く。尾根はアイゼンでちょうどいいくらいの雪がズッとつづいている。風が少しもないので暑い。雄山神社の雪のツララが溶けて落ちるくらいだ。乗鞍以南は春霞で見えぬ。笠、黒部五郎、薬師等は真白だが、槍、穂高、後立山の連峰は思ったより黒い。帰りは雪が溶けてあまり辷らなかった。天候も崩れそうだし、予定より早く弘法に帰れたので、荷物をまとめて山を下る。風が少し出てきて天狗平の尾根は小さい雪煙を上げている。森林帯に入ってから佐伯八郎ほか三名を連れた三人のパーティの登ってくるのに出会う。また材木坂には時間を食われる。藤橋でスキーを脱ぐ。二日間の晴天でこの辺の雪が大変少なくなったのに驚く。



三月三十一日 晴後雪 柏矢町六・三〇 山番小屋八・五五 常念小屋三・一五 中山峠五・三〇 一ノ俣の小屋八・三〇
 一ノ沢を取り囲む山は二月よりはズッと雪が少なくなっていた。一四〇〇メートルくらいからスキーを履く。だいぶ以前に通ったらしいパーティのシュプールがところどころ残っている。谷が狭くなってから左側の小さい尾根に常念道と書いた布が結びつけてある。ここを過ぎすぐ左から入ってくる小さい谷を登る。このときは雪が降りだし霧が巻いて山が見えなくなった。この谷は雪崩が出ていて靴のまま歩いても苦しくなかったからスキーはかつぐ。コルには雪庇といわれるほどのものはなかった。尾根は今降った雪がついているだけだが、森林帯は雪が多く、常念小屋は屋根が出ているきりだ。ここから下りはスキーによいと思っていたがタンネが茂り過ぎているし、雪がパンパンになっているので上の方はスキーをぬいだ。中山峠は初めてで心配したが地図の見当であたっていた。上下ともスキーをかついで雪崩の跡を伝う。思ったより楽だ。二ノ俣は大きな川が流れているので、しばしば高廻りをさせられた。赤沢岳から底雪崩の凄い奴がたくさん押出しているし、暗くなり雪も止まぬので随分弱った。一ノ俣の小屋には法政の人々が泊っていたので大変御馳走になった。ルックザックを干して寝たら、夜中には火の中に落ちてだいぶ焼けてしまった。僕は山では火の恩恵に浴されないらしい。

四月一日 快晴 一ノ俣一〇・〇〇 唐沢谷入口一二・三〇 奥穂高の岩場四・四〇―五・二〇 唐沢岳五・四〇 横尾岩小屋一〇・三〇
 今日はいい天気になって、大喰岳がモルゲン・ロートに燃えている。法政の人に針と糸を貰ってルックザックを縫い、不要の物は小屋に置いて、その人達と一緒に一ノ俣を出発する。横尾の出合までは二月よりズッと悪くなっている。法政のパーティは上高地へ下る。横尾谷は川床伝いに登る。屏風岩から塵雪崩が盛んに落ちて、昨日の新雪は黒い岩に変ってしまう。唐沢谷には北穂高の東尾根から相当雪崩が出ている。二六〇〇メートルくらいまで登ってからアイゼンに変える。脛まで潜るところもあるが雪崩の跡を伝って肩へ登った。寒い風が吹いている。奥穂の岩場のちょっとしたところが登れなかったので、唐沢岳へ登ってみる。浅間、八ヶ岳、南の山等がアーベント・グリューエンに燃えていて嬉しかった。帰りは雪がパンパンになっていて横辷りに悩む。横尾の岩小屋に八高出身の桑田氏がいたので泊めてもらう。

四月二日 曇 岩小屋四・三〇 穂高小屋一一・三〇 奥穂の頂一・三〇 一ノ俣七・〇〇
 桑田氏が奥穂へ登るというので連れて行ってもらう。奥穂の岩場でちょっと参ったが、同氏の切ったステップを辿ってやっと登った。こうして随分苦しんだので奥穂高岳の頂上に立ったときは、霧で眺望はきかなかったが、とても嬉しかった。下りも僕は随分ブレーキになって桑田氏にはお気の毒だった。岩小屋に帰ってからも大変御馳走になった。一ノ俣の小屋はこの日僕一人を待っていてくれた。

四月三日 快晴 一ノ俣五・三〇 徳本峠一〇・三〇 島々三・三〇
 とてもいい天気だ。徳本を越すには惜しい日だが、仕方がない。山に登ることが仕事ではないのだから。徳本はスキーをぬいで人の歩いた跡を伝う。岩魚止より下は雪がなかった。



四月二八日 晴 四谷八・二〇 白馬尻一二・一〇 白馬頂上四・三五 白馬尻六・〇〇 猿倉七・〇〇
 二俣には発電所ができるらしく、工事の人がたくさんいる。その水の取入口が猿倉の少し下にあるので、途中までいい道がある。一〇〇〇メートルくらいからスキーを履き、一三〇〇メートルくらいまで登ってから、雪が堅いのでスキーその他不要のものをブナの木の根に置いて行く。川から離れて左側を相当高廻りする。白馬尻には大きな雪崩の跡がある。二日前に降った雪が両側の急な谷から、今、底雪崩を起している。大雪渓は思ったより広く傾斜も緩い。今朝猿倉から登った大学のパーティが痛快に辷って下りてくる。僕はマッチを忘れてきたので、先頭の人に話して一つ貰う。天気がいいので、この辺は靴の上まで潜る。三時頃から強い風が吹き下ろしだした。小雪渓は意外に長く、雪は頂上の小屋の上までもつづいてスキー登山の山として理想的だ。尾根はまっすぐに立って歩けぬほど風が強い。富山平原からネーベル・メーアが押寄せてきて、雲の海の上に立山の連峰がはっきり浮んでいる。白馬の頂きに立ったとき、初めての夏山入りの思い出(蓮華温泉からこの頂きに立ったとき、こんなすばらしい山が日本にもあるのかと驚き、劔を見て槍だと思った頃のこと)が浮んでくる。頸城くびきの山もなかなか素敵だ。スキーはなくても下りは早い。スキーを置いたところから少し下ると猿倉の小屋が見つかった。神戸徒歩会の人がトリコニーの鋲靴を履いた案内を連れている。案内に白馬の頂きで黒姫山がわからなかったと言ったら、そんなことはない大雪渓の辺からズッと見えると行った。これではトリコニーが泣きはしないだろうか。そして湯を一杯貰うのさえ礼を言ったが、翌日白馬館で薪代を取られた。

四月二十九日 晴 猿倉八・〇〇 小日向頂上九・四〇 猿倉一〇・一〇―一一・〇〇 四谷一・三〇
 天気がいいのでスキーを履いて小日向山に登ってみた。白馬連峰を見るのにいいところだ。帰りは雪が溶けて水分が多く、スキーがあまり辷らぬので嬉しかった。辷ると転ぶからだ。徒歩会の人は二日ともノビニズムを研究していた。帰りに徒歩会の人と附合いをしたら、自動車が二十分遅れて電車に間に合わず、松本で十二時まで待たされた。僕はパートナーとしては恵まれないようだ。
(一九二九・一一)
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一月の思い出









 一月のことを思い出すのは僕には耐えられぬほど苦しい。だがそれをどうしても話してしまわなければ、僕は何だか大きな負債をになっているような気がしてなりません。偶然同じ小屋に臥し、同じ路を歩いた六人の Party と一人の Stranger とのあいだに醸成された感情、そんな些細な、つまらないことをと言ってしまえばそれまでですが、少なくともあのときの僕の不注意と親しみの少ない行動とを思い出すと、その貧しい記憶の残り火を過去の灰の中からかき立ててここに記すことは、僕としての義務であり、またそう努力することが、今はない六人に対する心ばかりの弔意であるとも思われるのです。
 ちょうど去年の暮の三十日の朝、雪の立山に魅せられた僕は、いつものボロ服姿で千垣に着きました。芦峅の佐伯暉光氏のところに寄ってあの人等が先に登られたと聞き少なからず心強く思ったことです。雪は藤橋でもわずか五寸ほどで、材木坂の大部分はスキーをかつぎ、それからも桑名までは雪が少なくて夏道より他はブッシュでとても歩けず、ブナ坂や刈安峠はスキーを脱いだくらいです。しかしあの人等の走跡があっただけに、迷うこともなく、ラッセルもしないですんだわけですから、どんなに楽だったか知れません。このことについては僕は、前にシュプールをつけてくれた人等に対して感謝の念を持ったのみで、その後ときどきこのような立場にある単独登行者に対して、悪意としか思われないほどの非難を聞きますが、そんなことは全く思いおよびもしませんでした。
 小屋に着いたときは四人の人等はみんなストーブのまわりで、スキーや山の話で夢中だったように思います。福松君と兵治君は炊事場の囲炉裏にあたって何かしていました。僕はそこへ行って御馳走になりながら、藤木氏や津田氏の話をしたように思います。夜は僕は囲炉裏の側で兵治君を真ん中にして福松君と三人で一緒に寝たのでした。四人の人等はいつも小屋の中に張ったテントに火鉢を入れて寝られたようです。
 三十一日の朝は霧が深く雪もチラチラ降っていました。福松君が目を覚して天気はどうかと聞いたので、大変な霧だと言ったら、それじゃ駄目だ、三月頃なら頑張ってみるが、今頃はこんな日でも鏡石辺から上は必ず強い風が吹いていて危険だ、など話しました。福松君は風邪を引いていて僕が薬を上げたが、いつもより元気が無かったようです。明るくなってから田部氏と福松君の他は一人ずつスキーの練習に出かけました。小屋より二町ほど西で小さい谷に面したところです。土屋氏が一番熱心のようでした。僕は殆んど見ていて一緒に辷ることは稀でした。昼頃から霧が晴れ鏡石辺から見えるようになったので、福松君を残してみんなで板倉氏の霊を弔いに松尾峠へ行くことになりました。それで僕もついて行ったのですが、だまって挨拶もしないでついて行ったのはいけなかったのです。うっかりしておったのですが、変な奴だと思っていられたようです。追分の小屋でちょっと休んで、いつも僕等が温泉の方をのぞくときに行くようなところから右へ急な斜面を登って松尾峠に着きました。終始兵治君がラッセルしてくれました。このとき一度でも僕が代っていたらどんなにあの人等の気持を親しくしていたか知れないと思わずにはいられません。峠の上でちょっと休んでこれから帰ろうというときになって田部氏が僕に、僕等は僕等だけで写真をとりたいから、すまないが君は先に帰ってくれませんかと言われました。そのとき僕は考えた。今きたところ、あの急斜面、しかも右手温泉側はドカッと落ちているあそこがどうしてスキーの下手な僕に安心して下れようと。今ではあんなところはスキーを脱いで下ればよかろうと思っていますが、あのとき僕はハアと答えたもののあの人等の下られる松尾峠の北斜面を横目にみながら後戻りする力はありませんでした。そこで理由を話して一緒に写真に入るのが困るんだったら僕は写真に写らないようにズッと後から行きますと言えばよかったんだが、それだのに僕にそのただ一言いうだけのほんのちょっとの勇気がどうしても出ないのです。それがいつでもなんです。ほんとに自分でも情なくなるのです。しかしここで彷徨しているのは一層いけないと思って反対の西の方へ尾根を歩いて行ったのです。田部氏がそこらを歩き廻って足跡をつけてはいけないと言われるのを後の方へ聞きながら辷ってしまいました。そのときは別に悪いことをしたとは思いませんでした。あの人等は北斜面を辷られのだし、僕は温泉に下る急な広い尾根になっている真白い斜面を左下に見ながら真西に辷ったのですから。それでかなりあの人等が気を悪くされたことは、思わずにはいられません。今なら冬の立山が何だと思っていますが、あの頃にはほんとに心細くて、経験の深いあの人等についていないと危険だとさえ思い、できるだけあの人等の気を悪くすまいと思っていましたから決して反抗的にしたのではなかったので、自ら慰めてはいますが――。帰りは追分附近から雪が降り出し、皆で登ってきたシュプールをただ一人漕いで弘法に帰りました。小屋の内に入って福松君と二言三言話しているうち、威勢よく声を上げて笑いながら帰ってこられました。そして君のスキーはまるで辷らなかったじゃないかと言う窪田氏の声と、よし覚えておれ急斜面に行ったらうんといじめてやるからと言う田部氏の大きな声等聞えました。それから小屋の中は急ににぎやかになりました。明日は元旦だが、もしお天気がよくなったら登って行かねばならず、ゆっくりお正月気分を味うことができぬと思われたのか、この夜持ってきた餅を炊いてお正月のように賑かな夕食をされました。それで兵治君が僕にも餅を分けてくれました。そして言うには初め自分はこういう者ですから、なにとぞよろしく御願いしますと言って挨拶すればよかったんですよ、まるで知らない人にだまってついてこられると誰だってちょっと不愉快になるのですよ――と親切に言ってくれました。それで僕は初めて自分の不注意に気がつき、名刺を持っていなかったので手帳の紙にR・C・C加藤文太郎と書いてどうかよろしくと言って渡したのです。そのとき窪田氏が「うん」という風にうなずかれたと思います。その夜は福松君が板倉氏の話をしてくれました。それから福松君は昨年三月弘法の下で僕が会ったパーティのなかにおったそうで、あれから後のことや、劒の悪場には自分等がある夏、太い針金を取付けておいたとか、こんどは兵治君が案内するので、それで行けなかったら自分も頑張ってみる等と話しました。
 昭和五年の元旦は霧と雪とで明けました。いつになったら登って行けるのやら。兵治君は無理をすると危険ですぞとよく言ったし、我々案内ですら霧に巻かれると方角がわからず、この小屋の附近で露営したことさえあるんですとも言った。僕が例の斜面の西向の緩い方を辷っていると、土屋、松平、窪田三氏と兵治君がやってきて急な北向きの斜面を辷っておられました。霧が薄くなったとき、代り代りにシネかなんかで他の人等が一緒に辷って下りてくるのを撮影されていました。スキーはどなたも上手でした。土屋氏が松平氏に何々温泉のときよりうんとうまくなったねと言われるのや、東京に帰ったらこれを映写するとき、コンパをやろうじゃないか等の会話が聞えました。それからその谷を北へ渡り尾根に登ってそれを伝い少し東へ行ったところで急に兵治君がやーあそこに兎が寝ているぞと言って小さい谷の中腹を指さしました。見ると、一本の木の根元に雪孔があってそこに兎がいたのです。そこで兵治君が辷って追いかけながら杖を投げたが、当らず、向いの尾根に逃げてしまいました。それを土屋氏が撮影され谷を弘法の方へ渡って、小屋の北側の急斜面で、またみんな熱心にスキーの練習をされました。午後になって霧が晴れ、快晴になったので写真機をとりに小屋に帰ると福松君がこんなときにたくさん写しておきなさい、なにしろ冬の立山だから悪くなったらいつ晴れるか知れないし、いい記念になるんだからと言いました。それで田部氏も土屋氏も大きなカメラを持って出かけられました。僕は水野氏から、同志社の児島氏が正月劔に登られると聞いていたので、今日あたりこられるかも知れぬと思って、桑谷の上まで行ってみました。そして何度かエーホーと声をかけてみましたが、返事はありませんのでまた一人引返しました。立山の連峰がアーベント・グリューエンに燃えて素敵でした。小屋に帰ってみると、あの人等は熱心に劔登行について相談しておられました。僕が囲炉裏の側でいつものフライ饅頭を食っていると、福松君がそんな物ばかり食っているとからだに悪いからと言って、熱い御飯とお汁を入れてくれるのでした。その夜はすばらしくたくさんの星がキラキラ瞬いていました。福松君がこんなに星が明滅するのはよくないと言っていた通り、次の日は午後からひどく荒れました。
 二日の朝は快晴だったので、あの人等は朝早くから起きて準備されました。僕が毛布を罐に入れ、荷物をまとめているとき、あの人等は出発し、田部氏は後頼むよと言って行かれました。僕はそれからすぐ支度ができたので、小屋の中を見廻ってこれでよいと思ってから皆の後を追いました。追いついたとき田部氏が僕に、君はどこへ行くんですかと尋ねられたのです。それで、僕はいけなかったなと思って何と挨拶しようかとちょっとだまっていると、福松君が、室堂に行くんでしょうと答えてくれました。追分小屋の附近から僕が先頭になってラッセルし、福松君の言うように夏道に沿って進むうち、姥石のところで窪田氏がこっちがいいと言って自分で先頭になられました。天狗平から雪はクラストになっていました。鏡石のところでちょっと休んで少し進んでから、あの人等は地獄谷を通って劔沢の小屋に行かれるので別れました。このときの何だか物足りない淋しさ、にぎやかだったこの数日間、それはこのときの淋しさを一層深め、いつもなら後を振り返りエーホーと声を送ってそれをまぎらすものを。
 室堂の側に荷物を置いて、一ノ越に登りました。雪をまじえた強い風が吹いていてアイゼンを履くのに弱りました。尾根も風が強く、這うようにしてやっと頂上に登りました。薄い霧がかかっていて遠くの山は見えません。雄山神社の写真を二枚写してすぐ下りました。室堂のいつも開いている北窓の下は風のため土台まで出ていて、この窓からはちょっと入れませんでした。それで南側の浄土山に面した窓から入りました。この窓はトタンで打ちつけ、その上に莚がかけてありましたので、それを巻いて入ったのです。これはいけないことをした、こんなことをしなくとも、もう少し努力すれば北窓から入れるのですのにちよっと吹雪いてきたので早く入ろうと思って、とんだことをしてしまいました。これがため芦峅の案内の人々や、その他多くの人に誤解を受け非難されました。お詫びしなければなりません。
 三日の朝は霧が掛っていましたが、非常に明るいのでどうやら良くなりそうだと思って劔沢に向いました。室堂から東へ辷って谷に下り、それに沿って行きました。雪が少ないためかところどころ水の流れが見えます。霧はすぐ晴れて快晴になりました。雷鳥沢の南側の尾根を登りましたが、意外に高いところまで粉雪が積っていました。乗越は強い風が吹いて、西の方は弥陀ヶ原までよく晴れていますが、黒部谷は雲が一杯詰っていて、鹿島や五竜が真白い頭をちょっと出しているだけです。また早月にも雲があってときどき劔をかすめています。劔沢の雪はクラストでした。ちょっと下って劔沢の小屋を見出したときはほんとに嬉しかった。小屋の中に入ってみると、あの人等はストーブを囲んで愉快そうに話をされていました。僕がちょっと挨拶すると、昨日君が一ノ越を登っているのを見てみんな心配したぜ、あんなにお天気が悪かったんだからねと言われました。僕が、今日みんなで劔にお登りになったらどうでしょうと言うと、今日は風が強いから駄目だと言われました。それで僕は、今晩ここへとめて下さいませんかと言ったんです。ほんとにずうずうしい考え方ですが、みんなに連れられて劔に登りたいと思っていたのです。そのとき窪田氏が、とめたいけれどももしお天気が悪くなって一人で帰れなくなるといけないから今日帰った方がいいと思うと言われました。それで僕は今度はすみませんが貴下のパーティに入れて下さいませんかと言ったんです。そしたら窪田氏が、君は一人だからパーティと言うことがわからぬでしょうが、パーティのなかに知らない人が一人でもいることは不愉快なんです。また昨年の乗鞍の遭難についても、知らない人々でパーティを作ったためだという非難もあるから、お気の毒だけれどこんどはお断りすると言われました。そしてもしこの小屋に泊りたいと思われるなら案内者を連れてきたまえ。案内者を連れぬ人はだいたい小屋は使えないのです。案内者を傭うお金がおしいなら山に登らないがいいでしょうと言われました。福松君も児島氏の組になってきなさいと言います。僕はもうこの小屋に泊ることはあきらめたので、兵治君に、今日だったら劔に登れますよ、お天気は大丈夫だし、どうでしょう登りませんかと言って誘ってみたんです。すると兵治君は、登れるなら君、登って見給えと言いました。そうだ、ほんとに僕はずうずうしい考えをもっていた。一人できながら、他人の人等の助力によって山に登ろう等と考えたことはほんとに悪かった。一人で山に登るのもいい。だが、他のパーティの邪魔になったり、小屋の後片付けについて非難を受けたりするようでは、山に登る資格はない。またこれらのことが全部避け得られても、なお山麓の村人に心配をかけることのみはどうしても、避け得られないだろう。僕は劔にできるだけ近くまで行ってみたいと思ったので早月の方の写真をとってくると言って出かけました。そのとき、あの人等は御飯をたべませんか、お菓子はどうですかと言って下さいました。例の別山尾根の鞍部にスキーを置いて、軍隊劔に登りました。雪は少なくて柔かでしたから、偃松を掘り出して足場を作りました。平蔵の手前に、早月側は急な雪もついていないガラ場で、平蔵側は柔かい雪が非常に急に谷に落ちているちょっと悪いところがあります。ここで僕は前進ができなくなり、ようやく引返しました。あの人等は例の鞍部でスキーの練習をされていましたが、僕が下りていくと、急いで帰られました。小屋に入って水をもらい、ちょっと休みました。皆は、御飯がもう少しもなくて気の毒だと言っておられました。そのとき、松平氏がお菓子を出してあげないかと言われましたが、僕は有難うございます、いろいろご厄介になりましたと言ってお別れし、一人で、別山を越えて帰りました。このときは、この前ほど淋しくはありませんでした。それは劔には登れなかったが、行けるところまで行き、なすべきをなしたという気持からでしょう。しかしこれが最後のお別れだと知っていたら、どんなに僕が悪人であろうと、必ず声をあげて泣いたでしょう。
 四日の朝はどんよりと雲っていましたので、悪くなるなと思って急いで支度をし、室堂から出ました。窓のところは元のようにトタンを抑えつけ、その上に莚を掛け、できるだけ完全に閉めたと思います。立山と室堂へお辞儀をして下って行きました。天狗平を右下に見て高廻りし、弥陀ヶ原に斜滑降で下ります。窓に寄って、薬師から五色ヶ原を背景として温泉の谷を写真にとりました。弘法でちょっと休んですぐ下り、桑谷で迷っているうち、偶然にも誰かのシュプールを見いだし、ほっとしてそれに従って下りました。後で知ったのですがこれは同志社の児島氏のパーティのシュプールで、児島氏のパーティもちょっと迷って困っているとき、僕のシュプールを見つけて登られたそうです。ちょうどここで行き違いになったのです。エーホーと声をかけてみましたが、遠く離れているのか返事はありませんでした。この時分から雪が盛んに降りだしましたが、もう道を迷うこともなく呑気でした。材木坂はスキーを脱いで下りました。藤橋に着いたときは疲れて千垣まで歩く元気が出ませんでした。
 五日の朝はちょっとのあいだ雪が降っていました。そして材木坂のブナ林が新雪で綺麗に飾られていました。芦峅の佐伯暉光氏のところに寄って、小屋料を渡しました。去年の三月弘法に泊った分も一緒に。そして千垣に着いたのはお昼でした。
 幾度登ってみても、あの立山は変らない。だが、もう二度と再びあの人等にお会いすることができなくなったとは、たとい僅か数日の交りであったにしてもなんという悲しい思い出だろう。山で会った人と人との懐しさ!
 ああ今はなき先輩諸兄よ、スキーよ、山よ、シーハイル、シーハイル!
(一九三〇)
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厳冬の薬師岳から烏帽子岳へ







昭和五年十二月三十日 雪 猪谷九・三〇 土十二・一〇 大多和二・五〇(零下一度)積雪一尺
十二月三十一日 晴 大多和八・三〇(零下三度) 大多和峠一二・〇〇積雪三尺 有峯三・〇〇積雪二尺 真川峠八・三〇 真川の小屋一〇・〇〇(零下一四度)
積雪四尺 昭和六年一月一日 曇 真川の小屋八・三〇(零下八度) 太郎平一・二〇(零下六度)上ノ岳の小屋二・三〇(零下七度)
一月二日 雪 滞在 八・〇〇(零下二度)一二・〇〇(零下五度)四・〇〇(零下六度)
一月三日 午後快晴 八・〇〇(零下一一度) 上ノ岳の小屋一一・三〇 薬師沢乗越一二・三〇 薬師岳二・五〇(零下十三度) 上ノ岳の小屋五・二〇(零下一〇度)
一月四日 曇 上ノ岳の小屋八・〇〇 黒部五郎岳一二・一〇(零下八度) 三俣蓮華岳四・五〇 三俣蓮華の小屋五・三〇(零下三度)
一月五日 雪 滞在 八・〇〇(零下二度)四・〇〇(零下一度)
一月六日 雪 三俣蓮華の小屋七・〇〇 鷲羽岳九・〇〇(零下七度) 黒岳一二・三〇 野口五郎岳六・三〇 避難地七・〇〇―九・〇〇 三ツ岳一二・〇〇烏帽子の小屋二・〇〇
一月七日 快晴 烏帽子の小屋一〇・三〇 三角点三・〇〇 東信電力社宅一一・〇〇 積雪一尺
一月八日 雪 社宅一〇・〇〇 葛ノ湯一二・〇〇 大町二・三〇
 飛越線終点、猪谷いのたにから土までは長い道ではないが、あの両側の山から物凄い雪崩が落ちてくるのではなかろうかと心配した。しかし、今年はとても雪が少なく、自動車も走っているほどで、雪崩は跡かたもなかった。土から大多和までは緩い登りだが、睡眠不足がこたえて、意外に時間がかかった。朝から雪が降っていたが、大多和に着いた頃は雲が少しずつ切れていった。有峯ありみねまで行きたかったが、悪いところがあると聞いていたので、一番上の古田という家に泊めてもらうことにした。そして峠への道を偵察に十町ほど登って行ったが、崩れたところがあってスキーを脱がねばならぬと思ったのでそこから引返した。そして家の裏で下手なスキーを楽しんだ。
 三十一日は午後から快晴になった。古田氏が、例の崩れた所へ道をつけてやると言うので、一緒に行ってもらう。スコップで雪を落して道をつけてもらい、アイゼンを履いてスキーと荷物を二度にはこんだ。無事に悪場を過ぎてから、対岸で見ていた古田氏に御礼を言って別れた。それからは地図と同様平凡な道であった。しかし、水も無いような川を渡るのに、何度もスキーを脱いだりして時間がかかった。大多和峠から見た薬師岳は、とてもすばらしい姿だった。峠の下りは上の方は辷ったが下の方は傾斜が緩く、かつ晴天になったため、あまり辷らなかった。西谷の流れは地図に書いてある上流の方の橋を渡った。これは大きな橋で今後も落ちることはないと思う。東谷はだいぶ深いように聞いていたので、防水のズボンをはき、防水のノールウェ・バンドをかたく締めて行ったが、雪の少ないためか、あるいは寒さのためか、深さは五寸くらいしかなく、川端も一間くらいで、徒歩は簡単だった。真川峠(一八〇二メートル)の登り口は雪が少ないので、道がよくわかった。この尾根は地図と同様、スキー滑降に理想的な傾斜で、藪も少なく素敵だと思った。尾根も一本で、迷うことなく頂上に着いた。頂上は広い、のんびりした雪原だった。頂上から右へちょっと巻くように下らねばならぬのを、まっすぐ下ってみると小屋がわからず、ちょっと驚いた。この下りはスキーが下手なので、輪カンジキで下る予定にしていたが、割合藪も少なく、愉快な斜滑降ができた。川床へ降りてから地図を見て、道はもっと上流だったことがわかり、二、三町登って行くうち、真川の小屋は随分大きいのですぐ見つかった。今夜はすばらしい星月夜で、ランタンもいらぬくらいに明るく非常に助かった。小屋は東南側のものを使用した。莚の破れたのが五、六枚あるきりで寒かった。
 真川にはところどころスノウ・ブリッジがあったので難なく渡れた。渡るとすぐ一〇メートルほど、急な藪があってスキーをぬいだが、その上は平らであった。右に谷を見下しながら登って行くうち漸次急な斜面になった。この辺は樅の繁った林だったが、帰りにはすばらしい滑降のできるところだと思った。この大きな斜面を登るとちょっと平らになり、すぐまた少しのあいだ急になったが、それを抜けるとそれこそ広くて緩い真白な、すばらしい斜面が太郎平までつづいていた。この附近から雪は風のため締っていてスキーは少しも沈まない。太郎平から上ノ岳の小屋までも、クリスマス・ツリーの点在した気持のよい雪原だった。上ノ岳の小屋は風のため、大部分露出していた。初め西側の窓から入って、南側の戸を内から開けて荷物を入れた。小屋の中は一尺くらい雪が積っていたが、雪は締っていて靴に着かず気持がよかった。寝床は二階にした。そこへは入口の戸のさんを登って行けた。二階は太いはりが二本、三尺くらい離れてあるだけだ。その上に枯れた偃松の束がたくさん並べて置いてある。そこには蒲団と毛布が箱の中に入れてあって、その上にござが冠せてあった。それを引出し、偃松の上に蓙を敷き蒲団四枚と毛布を使って寝床を作った。雪が小屋の上の方からも入ってくるので、蒲団の上に蓙を冠せて寝た。温度はあまり下らなかったので温かだった。ただ二階への上下はうるさかった。飯はアルコールを用い薪は使わなかった。もちろんぬれた物は乾かせなかったが、さほど不自由ではなかった。
 二日は終日荒れた。三日は午後から霧が晴れ出したので薬師岳へ登る。太郎平まではズーと下りだが、傾斜が緩いためかあまり飛ばなかった。この附近の木は皆すばらしいクリスマス・ツリーになっていた。薬師の取付きも雪があるため夏のようにいやな谷もなく、どこでも自由に登れた。急なところをちょっと登ると、もう木もまばらな緩い斜面で、粉雪が二六〇〇メートル附近までつづいていた。二六五八メートルからアイゼンを履く。頂上まで広い平凡な尾根だった。この附近から見た冬山の大観はすばらしかった。薬師堂附近の雪庇は平凡な形のもので、その上を歩いても落ちなかった。下りはちょっとではあったが、なかなか愉快な滑降ができた。薬師や黒岳―赤牛の尾根等がアーベント・グリューエンに燃えているのを眺めながら上ノ岳の小屋へ帰って行った。小屋に着いた頃は、日は白山別山のところへ沈んで、月が薬師の北尾根の上に出ていた。
 四日は強い風の音がするので、また荒れているのかと思って出てみると、青空ではないがよく山が見えた。東の空は朝焼けがしているので悪くなるなと思ったが、荒れたら黒部五郎の小屋へ避難することにして出発した。上ノ岳の三角標石は完全に露出していた。ズーと尾根通りスキーで行く。黒部側は中腹に広々とした平がつづいているので、風の特に強いときはその辺を巻いて行ったら楽に違いないと思った。黒部五郎岳の二つ手前に、小さい岩場があったので、そこでスキーを脱ぐ。アイゼンで歩いてもさほど困難ではなかったから、そのまま黒部五郎岳まで進んで行った。黒部五郎岳は登りも降りも平凡な尾根で雪庇もなかった。二五八〇メートル附近からスキーを履き、左側の谷へ降る。上の方は面白く辷ったが、思ったほど長い滑降はできなかった。黒部五郎の小屋は気持よく出ていた。寝具さえあったら一日や二日は泊ってスキーを楽しみたいと思った。黒部五郎側も、三俣蓮華側も木もまばらなすばらしい斜面ばかりだから、三俣蓮華の尾根へは夏道よりもズーと北側の斜面を登った。二五五〇メートルくらいでアイゼンを履く。雪庇もない緩い尾根だ。三俣蓮華の三角標石は露出していた。頂上を越してちょっと降ってからスキーを履く、三俣蓮華の小屋まで、二カ所ほど平らなところがあったが、思ったよりよく辷って愉快だった。小屋は完全に雪にかこまれて、棟の部分がちょっと出ているだけだった。窓を掘り出すのに鷲羽岳側が割合楽そうだったので、ピッケルとスキーを使ってそこを掘った。雪は相当緊っていたが、それでも壁の附近はやわらかだった。しかし掘ったところには窓はなかった。暗くなってきたし雪も降り出すので、新しいところを掘る元気もなく、壁を一尺五寸四角ほど破ってしまった。窓は皆東南側ばかりだった。しかも内から針金で引張ってあったので、結局破らねばならなかったと思う。破った窓は小さかったので、ルックザックは品物を少し出さぬと入らなかった。身体もやっと辷り込めるくらいで、出るときには困った。破ったところは、翌日窓を掘り出して後、できるだけ完全に修繕した。小屋の内には不思議に雪が入っていなかった。蒲団は棒に釣りかけてあった。その上には蓙が冠せてあった。それを引き下して使った。あたたかいことは上ノ岳の小屋等とは比較にならない。それに上ノ岳の小屋のように二階へ上下する不便がないだけでも楽だった。ただスコップ等を、小屋の屋根あたりに柱を立ててそれに掛けておいてくれるとよいと思った。その後、小屋の主人に、壁板を破ったこと等を話したとき、それを頼んではおいたが。
 五日は終日雪が降った。六日は朝、霧が晴れてゆくのでよくなると思って出たが、何よりも空が曇っていたのが悪く、吹雪になってしまった。鷲羽岳の登りは雪のかたいところが多く、意外に時間がかかった。ワリモ岳は岩をさけて下を巻いたら楽だった。物凄い霧で方角もよくわからず、どんどん歩いているうち、赤岳も知らずに過ぎ黒岳の岩場にぶつかって驚いた。荷物を置いて黒岳の頂上へ往復する。一番初めの岩場がちょっと悪かった。ここは帰りに西側の雪の斜面を巻いてみて、雪の方が楽だと思った。それからは平凡な岩尾根だった。黒岳の頂上も過ぎ、もう一つ北の峰まで行った。そこに三角点があるから。けれども、例の毀れた柱が三本あるきりで、三角標石は見えなかった。それでもこんどの行程の最高峰だったので、ベルグ・ハイルを三唱した。引返してから、赤岳の東尾根をさがすのに相当迷った。やっと取付いたが、ここがまた、短いが、一番悪いところだった。東沢側は大したことはなかったが、ワリモ沢側は物凄かった。悪いところは荷物とスキーを別々にはこんだりして、随分時間を食った。全部尾根通しに東沢側ばかりを歩いた。悪場を過ぎてからも、上り下りが意外に悪く、かつ眺望がないため一層疲れた。風の非常に強いときなどは、スキーで東沢の谷へ降りて、ズーと下を巻いた方が楽に違いないと思った。野口五郎岳の三角標石は、完全に露出していた。頂上からちょっと縦走して行くと尾根にくぼんだところがある。そこでちょっと休むことにして、雪の孔を掘り、カッパを上に張って潜り込んだ。孔の中の温度を計ろうと思って寒暖計を出していたが、一度も計らずに紛失してしまった。孔の中はあたたかだったが、二時間ほどで出発した。そのうち霧が晴れて月が出たので、すばらしい冬の夜の山を味うことができた。風は相変らず強く、立止っていることが多かった。皮の手袋がぬれたので、毛メリヤスの手袋にかえたが、終始指の感覚がなくなるので弱った。やはり風の強いときは、皮の物でないと駄目だ。三ツ岳の三角標石も完全に露出していた。頂上からちょっと行くと左の尾根へ雪庇がつづいているので、それを伝って降った。その尾根は下の方で本尾根と一緒になっているように見えたが、下ってみると大きな谷になっていた。それでも烏帽子の小屋はもうすぐだと思って、元気で引返した。一番さがったところでスキーをはく。樅の林を右に見て、ちょっとしたところを越すとすぐ向うに、烏帽子の小屋が大きく月に照らされていた。小屋は意外にも、風のため土台まで露出していた。窓を開けて中へ入る。小屋の中にも雪は殆んどなかった。蒲団は三俣蓮華の小屋と同様、棒にかけてある。この小屋は風の強いときは寒いに違いないが、寝具があるので大したことはないと思った。
 七日はすばらしい快晴で、少々暑かった。小屋の附近はスキーに最もよいところだった。ブナ立尾根も上の方は素敵だった。尾根がやせてから輪カンジキにした。一カ月ほども烏帽子にいたという猟師が一、二日前に下ったので、輪の跡が残っていたが、新雪と風ではっきりしない。猟師が右の方の谷へ下って、また引返しているのだが、冬期はその谷を下るのかと思って、悪いところを下り随分時間を浪費した。初めはいちいち引返したが、そのうち元気もなくなり、迷ったまま夏道より南の尾根を下って行った。そのうち尾根よりも夏道とのあいだの谷がよさそうなのでそれへ入った。この谷は一月五日の雨に、両側から物凄く雪崩が出て、氷のようになっていたので、輪カンジキでは辷り落ちたりした。アイゼンではまた、六日の新雪があって、ひどく潜るところがあった。この谷は悪場はなかったが、凄い雪崩道である。幸いこの日は風もなく、二〇〇〇メートル以下は霧だったので、雪崩は出なかった。だいぶ下ってから、滝があったので、また右の尾根へ取付いたが、藪が多く楽ではなかった。それに下の川の音を滝だと思って右へ右へと巻いたが、いくら巻いても音がするので、思い切って、尾根のように広い谷があったので、それを降りて行ったら難なくにごりの川原へ出ることができた。冬期でも、烏帽子へは夏道を上下するとのことだ。川原にはまた、猟師の歩いた跡があって、すぐ濁の小屋へ着くことができた。濁の小屋には莚が三枚と畳があるだけで、寝るには寒いので、対岸にある、東信電力の金原氏のところに行って泊めてもらう。非常に親切な方だった。電気炬燵、電気風呂が殊に嬉しかった。
 八日は、雪がちらちら降っていた。高瀬の谷は物凄い雪崩が出るだろうと思って心配したが、問題になるような物は出ていなかった。しかも人が始終通るので、歩いた方が早かった。大多和の古田氏のところで、大阪の人が昭和五年の正月に芦峅の案内を連れて信州へ越したと聞いた。そのときの山の状態はどんなだったろう。それを今でも知りたいと思っている。また昭和五年の暮に東京の学生が一人で烏帽子へ往復したという。その努力には驚いた。ブナ立尾根の登りはひどいに違いない。
(一九三一・一)
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初冬の常念山脈







十一月三十日(昭和五年)晴後雪 六・三五柏矢町 七・四〇―八・〇〇鳥川橋傍茶店朝食 九・二〇大助小屋 一〇・一〇冷沢炭焼小屋 三・〇〇常念乗越沢出合 七・〇〇常念の小屋
十二月一日 晴、強風 八・〇〇常念の小屋 九・〇〇常念頂上 九・三〇―一〇・四〇常念の小屋 一一・四〇横通岳 一・四〇大天井岳 三・四〇―四・〇〇常念の小屋 五・三〇常念乗越沢出合 九・三〇冷沢炭焼小屋
十二月二日 晴 八・三〇冷沢炭焼小屋 一一・三〇豊科
 日本アルプスといわれる山々には九月の終りにもなると、ときおりは雪がやってくる。しかしまだそれほど寒くないので、その後にくるであろう晴れた日に大部分は哀れにもはかなく消えてしまう。だが十月の半ばにもなって、日本アルプスの谷という谷が緋の衣に包まれると、山の頂きもまた日に日に白さを増してくる。そして十一月には木枯らしが吹き、一荒れごとに淋しい落葉の音もまれに、こずえ越しにははや雪が見え出してくるし、安曇野あずみのの村々には冬篭りの用意ができ、どの家にも暖い炬燵が仕切られてくる。ちょうどそのころ六甲山からも遥か彼方に黒々とした山波を越して真白い「氷ノ山」を見出すことができ、山友達からは今シーズン最初の一滑りを白馬や立山からもたらしてくる。もうこうなると山男の心は日本アルプスのどこかの谷か、山へと飛んでしまって、休暇でも残っていようものなら仕事などまるで手につかないことがある。
 夜行列車が木曾福島のあたりを通るころには、山へ入って行く興奮からよく目が覚める。そして天候を気にしながらいつも窓外をすかして見るのであった。こうした何年かの経験によって木曽福島附近が晴れておれば翌日は晴天で、曇っていれば曇り、雪が降っておれば雪であることを知った。これによって見ると天候の変化が殆んどすべて南の方からやってくるのだと想像される。
 冬期常念山脈の主峰に登るには、常念一ノ沢より他に適当なコースは見つからない。鳥川橋を渡って二町ほど北へ進み、そこを左へ折れてまた西へ西へと離山の横を登って行くと鳥川橋から一時間あまりで大助小屋という一軒屋の前庭に出てくる。この道は最近改修されて大変よい道になっている。大助小屋には春から秋にかけては番人がいるようだが、冬には誰もいない。旧道はこの谷を渡ってちょっとした峠を越し崩れたところを高廻りしたが、今はその下を巻いて立派な道ができた上、崩れたところには大きな橋が架っている。なおもこの道を巻いて行くと、方向がぐっと北向きになり、冷沢つべたざわという浅川山の西側から南へ落ちている。谷へ出合う。この冷沢の落口附近には一ノ瀬、二ノ瀬という、旧道中の一名所であった二つの橋がある。今は新道がずっと北側ばかりを巻いていて、橋も見えないほど谷から離れている。道はやがて四尺幅くらいにせばまり、右側からジメジメした沢や、水の流れている小谷等が二つ三つ入ってくる。そして冷沢から約一時間で栃ノ木山神というところに着く。ここからは殆んど真西に向ってブナとか栃とかの大木の中を相変らず左岸に沿うて登って行く。二時間余も登って行くと左岸、対岸に常念沢が落ち込んでくる。一ノ沢右岸は道のついている左岸に比べるとずっと平凡で、殆んど谷らしい谷が見あたらない。だからこの常念沢は誰がみてもはっきりしていて、よい目標となり、谷のどんづまりの近くなったことを知らせてくれる。もうここまでくると雪が一尺余り積っていて歩行が困難になってきた。これから上は谷もだんだん傾斜が出てきて雪崩や水害の危険が多いように思われる。殊に雪崩は随分大きな奴が出るらしく、最近山友達山野三郎君や有名な山案内人中山彦一君等の生命を奪っている。
 常念沢出合から上は左岸より右岸の方が複雑で、谷のどんづまりまでに右岸からは小谷が二本ほど入ってくる。この小谷はどれも常念乗越附近から出ている。本谷のどんづまりと思われるところから上は四つの支谷に分れている。第一回は十月十六日に夏道を、第二回は五月二十七日に谷のどんづまりから一番右の大きな谷を登って横通岳頂上附近へ、第三回は三月三十一日に常念沢出合を過ぎてから入ってくる二番目の谷を、第四回はこの十一月三十日で同じく最初に入ってくる谷を登ったがともに乗越附近へ出た。以上四回とも霧の深い日であったため、地形図の間違っていることだけを知ったのみで正確な谷の位置をつきとめていない。あるいは第三回目に登った谷が常念乗越沢であるかも知れない。しかしこの谷も第四回目に登った谷もともに大変幅が狭く、かつ急傾斜なのでスキーを履いて登るのは非常に困難である。殊に冬期にあっては、降雪中は雪はやわらかいが雪崩の危険があり、その他の場合は表面がウインド・クラストに変化した板状雪になっているので、ワカンで登るより仕方がない。こんどの状態は後者で、ワカンを履いてなお腰近くまでもぐった。それで最初荷物を置いたまま、から身で道をつけ、のちスキーと荷物は二回に分けて運ばねばならず、大変苦しい登りであった。この谷を登ると岳樺だけかんばのまばらに生えた広い尾根に出ることができた。ここまでくると雪が降り出して吹雪模様になってきたので、毛皮を着込んだり、コッヘルで甘納豆をたいてカロリーをとったりして戦の準備をした。しかしこの尾根は風がよく当るので雪が締っていてアイゼンで楽に登れた。それを登り切ると常念乗越で雪庇等もなく風のために雪も殆んど吹き飛ばされたガラガラ道が常念の小屋までつづいている。小屋は常念岳に面した方の戸が完全に出ていて難なく入れた。雪の多い三月ごろなら一ノ俣に面した西側の窓から入る方が楽であるとのことだ。小屋はなかなか立派で特別室等雪の入っていないところが多く、寝具の設備もある。
 翌日は霧が深い上、非常に強い風が吹きまくっていてとてもスキーをかついでは歩かれないので、まず常念へ、から身で登る。常念は雪が殆んど吹き飛ばされてガラガラで夏と同様の時間で登れる。前常念とのジャンクションから頂上までは本沢へ向って相当大きな雪庇がつづいていた。当にしていた真正面の槍・穂高の勇姿には接することができなかった。小屋へ帰った頃には天候がだいぶ良くなり、青空が見え出したので、槍へ行こうか、上高地へ下ろうかといろいろ迷った。しかし相変らず風が強いのと、休暇も僅かなので大天井岳に登って引返すことにきめ小屋を出発する。常念乗越から横通岳へはしばらくのあいだタンネの林で雪が軟く、ぼこぼこ落ち込むので大変歩きにくい。それに大きな雪庇が一ノ沢に向ってできているので、尾根の端を歩くのは危険である。こんな雪の少ない十二月の初めでさえ雪庇ができているのだから冬期は随分大きくなるであろう。また横通岳の東斜面(一ノ沢上部、昭和三年五月登って見た)は頂上近くなると随分急傾斜であり、降雪中はたいてい西風のため風陰になるから絶好の雪崩発生地であろう。横通から大天井までは広い尾根で危険なところはないが、まだ初冬であるせいか、ところどころ雪が破れて偃松の中へ落込むところがあった。東天井の中山へつづく西尾根には小さい雪庇が南向へつづいていた。二ノ俣の避難小屋は雪が一ぱいつまっていて冬期使用にはたえられないようだ。大天井の頂上からは雲の海になった高瀬の谷をへだてて五郎岳や黒岳、鷲羽等が銀色に光って見えるし、槍から穂高にかけての尾根筋は真冬と変らないほどの真白さで登高欲をそそられる。喜作新道はうねうねしているし、西岳と東鎌とのあいだの鞍部附近は夏でも良くないところだから、縦走するとしたら相当時間がかかるであろう。燕岳への尾根は全く広々としていて頂上までならすぐ行ってこられそうに見えるがなんら興味が起らない。すぐ常念の小屋へ引返し荷物をまとめて再び一ノ沢へ下る。乗越から少し下ると霧が深く雪がちらちら降っているほどで、方角もわからないままいい加減に下って行ったが、やはり登ってきた谷と同じような谷へ入った。谷の雪は相変らず軟くよくもぐるが、下る方は案外楽で登りとは比較にならなかった。で、この谷は常念山脈からの降路としては最良のものに違いないと思った。この晩冷沢の炭焼小屋に厄介になった。小屋主は越中小川温泉山崎村羽入からきている長津という人であった。
 冬山の第一の危険は雪崩であるが、初冬の雪崩は殆んど一次(新雪)のもので、真冬や春のようにどか雪の降ることが少ない。また二次―高次(旧雪)の雪崩は春のように恐ろしく気温が高くなったり、大雨が降る等ということもないから、あまり心配はない。天候は春より変りやすいが、ウェーブが小さく大荒れがないので山へ登れない日は殆んどない。気温はこの山行で十一月三十日夜常念の小屋で零度(降雪中)翌十二月一日大天井岳頂上で零下五度(晴、強風)であった。また初冬の岩場は凍ったところが少なく、冬春を通じて一番安全である。初冬の山行の困難は積雪の状態が真冬と同様に軟く、スキーなしには殆んど登れないことである。すなわち春山のようにクラストを利用したり、雪崩の後を伝ったりして歩いて登ることができない。だから藪の多い山や、谷が細く傾斜の急な山へ登ったり、谷から山へ、山から谷へと横断して行くのは困難であろう。
(一九三一)
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冬山単独行









昭和五年十二月三十日 小雪 猪谷午前九・三〇 大多和村午後二・五〇零下一度 積雪量一尺くらい
十二月三十一日 晴後快晴 大多和村午前八・三〇零下三度 大多和峠午後〇・〇〇零下四度積雪量三尺くらい 有峰三・〇〇 真川峠八・三〇 真川奥の小屋一〇・〇〇零下一四度積雪量四尺くらい
昭和六年一月一日 曇 真川奥の小屋午前八・三〇零下八度 太郎平午後一・二〇零下六度 上ノ岳の小屋二・三〇零下七度
一月二日 風雪 滞在 午前八・〇〇零下二度 午後〇・〇〇零下五度 四・〇〇零下六度
一月三日 霧後快晴 午前八・〇〇零下一一度 上ノ岳の小屋一一・三〇 薬師沢乗越午後〇・三〇 薬師岳二・五〇零下一三度 薬師沢乗越三・五〇 上ノ岳の小屋五・二〇零下一〇度
一月四日 曇 上ノ岳の小屋午前八・〇〇 黒部五郎岳午後〇・一〇零下八度 黒部五郎の小屋二・〇〇 三俣蓮華岳四・五〇 三俣蓮華の小屋五・三〇零下三度
一月五日 雪 滞在 午前八・〇〇零下二度 午後四・〇〇零下一度
一月六日 雪 三俣蓮華の小屋午前七・〇〇 鷲羽岳九・〇〇零下七度 黒岳午後〇・三〇 野口五郎岳六・三〇 避難地七・〇〇―九・〇〇 三ツ岳午前〇・〇〇 烏帽子の小屋二・〇〇
一月七日 快晴 二〇メートル以下霧 烏帽子の小屋午前一一・〇〇 濁の東信電力社宅午後一一・〇〇
積雪量一尺くらい
一月八日 小雪 電力社宅午前一〇・〇〇 葛ノ湯午後〇・〇〇 大町駅二・三〇
 猪谷から大多和までは両側の山から大きい雪崩の出るところだと思っていたが、雪の少ないためかまだ雪崩の跡はなかった。大多和村では吉田長右衛門様のところで泊めてもらった。村から十町ほど行ったところに崩れたところがあるが、吉田君がスコップで道をつくってくれたのでなんでもなかった。そこから大多和峠までは地図の通りで、迷うようなこともなかった。峠の上から見た薬師岳はとてもすばらしかった。峠の下りも上の方は面白く辷ることができた。有峰の平には誰もいない大きな家がぽつんぽつんとたっているので馬鹿に淋しかった。西谷の川には橋があったし、東谷の徒歩も意外に簡単だった。真川峠一八〇二メートルの道は地図の通りで、スキーに理想的の尾根だった。峠から真川奥の小屋へ下るには少し右へ巻かねばならぬ。小屋は大きな建物だが半分はこわれていた。僕の寝たところは破れた筵が四、五枚あるだけで随分寒かった。真川には雪橋がところどころかかっていた。太郎平への尾根は下の方で意外に時間を食われた。上ノ岳の小屋は完全に出ていた。この小屋は去年から佐伯八郎様が管理していて、寝具が置いてあるので寒くはなかった。しかし下には雪が少し積っているので偃松のほしてある二階のようなところへあがって寝た。薬師岳は二六〇〇メートルまでスキーで登った。そこから頂上まではアイゼンで雄山の登りよりずっと楽だった。頂上附近にさえ雪庇というほどのものはなかった。スキー・デポからの下りはとても雪がよかった。上ノ岳の三角標石は完全に出ていた。黒部五郎岳の少し手前に小さい岩場があったのでそこでスキーをぬいだ。五郎岳の下りは二六〇〇メートル附近からスキーをつけて左側の谷へ入ったがあまり飛ばなかった。五郎の小屋は完全に出ていた。小屋の附近に気持のよい斜面がたくさんあるが、寝具がないので泊る勇気はでなかった。三俣蓮華岳には二五〇〇メートルまでスキーを使った。蓮華岳の三角標石は露出していた。蓮華の下りは頂上からズーとスキーによかった。蓮華の小屋は雪に埋れていて窓が掘り出せなかったので、壁板を一尺五寸四角ほど破って入った。それで翌日窓を掘り出して後、破ったところを修繕した。道具は全部小屋の中にあった。その後、小屋の主人にこのことを話し弁償する約束をした。また今後窓の上に柱を立てて、それにスコップを掛けておいて下さいとお願いをした。鷲羽岳の登りは雄山の登りより悪かった。鷲羽の三角標石は完全に出ていた。ワリモ岳の岩は西側を巻いた。黒岳には最初ちょっとした岩場があったが、ここは帰りに西側の雪の斜面を巻いてみて雪の方がよいと思った。頂上を過ぎて一つ向いの三角点のところまで行ったが、やぐらの朽木が二、三本立っているだけで三角標石は見えなかった。この山へはから身で往復したが一番山らしい感じがした。赤岳の下りは濃霧でちょっとわからなかった。取付いてからも、ひどいというほどではないが荷物があり、バランスの悪い僕には一番手強いところだった。野口五郎岳の三角標石は完全に出ていた。五郎を過ぎてから尾根にくぼんだところがあったので、雪の孔を掘って二時間ほど避難した。三ツ岳へ近くなってから霧が晴れ上って月が出たが風は相変らず強いので弱った。三ツ岳の三角標石も完全に出ていた。ここから烏帽子への尾根は注意しないと間違う。僕は西側の尾根を下りてしまって困った。尾根がタンネの林になってからスキーを履き、ちょっとしたところを乗越すとすぐ目の前に土台まで露出した烏帽子の小屋が月に照らされていた。小屋の内には意外に雪も入っていなかった。この日は断然天候を見誤った。雪が朝方止んだので大丈夫だと思って出たが、どんより空が曇っていたのが悪かったらしい。小屋の附近は東沢側はもちろんのこと※(「木+無」、第3水準1-86-12)立の方もスキーに理想的なところだった。※(「木+無」、第3水準1-86-12)立尾根の下りは二〇〇〇メートル附近で右の谷へ入ったが、雪崩で随分荒れていて不愉快だった。下の方は小さい滝があったので右へ巻いたが、藪で意外に時間を食った。にごりの小屋には寝具がなかったので東信電力の金原様のところへ泊めてもらった。高瀬の谷には物凄い雪崩が出ているだろうと思っていたが、雪の少ないためか問題になるほどのものは見つからなかった。



昭和六年二月十一日 晴霧 鹿島村午前四・三〇 冷沢徒歩六・一〇 北俣と西俣の出合八・〇〇 スキー・デポ午後一・三〇 冷ノ池二・三〇 鹿島槍ヶ岳四・四〇零下一八度 冷ノ池六・〇〇 スキー・デポ八・三〇 北俣と西俣の出合九・三〇 冷沢徒歩一一・〇〇 鹿島村午前〇・〇〇
 鹿島村から丸山までは毎日一回やってきたので、この日は四回目だった。丸山の下で冷沢つべたざわの川を渡ってからは北俣と西俣の出合を左岸ばかりを行く。一ノ沢までに二カ所ほどスキーをぬぐところがあったが、だいぶおどかされた西俣等はとてもスキーに適したすばらしい谷だった。西俣へ押し出す雪崩は主に、下の方は南側の岩壁のある谷から、上の方では正面の岩壁からである。後者のものはほぼ谷全体にひろがるので油断がならぬと思う。大体冬期は降雪と降雨の日をさければめったにやられることはないと思うが、なるだけこの谷では北側の尾根に沿った方がよい。この谷の下の方は、北側に溝が一本通っているが、両側の尾根までは随分広く、すばらしい谷だ。僕は上部正面の岩壁の下で北側の尾根へ取付いたが、そのとき登った谷等はステム・ボーゲンに理想的なところだった。この尾根は岳樺の疎林でとても気持のいいものだった。二千二、三百メートルのところをスキー・デポとした。そこから本尾根までは、岩場はなし雪もやわらかく平凡な尾根伝いだった。本尾根の取付きにも問題になるような雪庇はなかった。冷ノつべたいけ附近には相当大きな雪庇が東側へ出ていたが、三月頃ほどのこともなさそうだし、つらくてもタンネの中を行けば心配はない。ここから鹿島槍の頂上までは長いことは長いが、風が強いだけで悪場はなし雪もかたく楽だった。頂上には東京商大の人々が立てた岳樺の小枝があって、それに一行の名前を書き入れた中山彦一様の名刺がバットの空箱に入れて挟んであった。僕は無断で失礼だと思ったが、ちょっと嬉しかったので名前をそれに小さく書かせてもらった。そんなわけで濃霧で何も見えなかったが、頂上には立ったに違いないと思っている。帰りは下りなので他の尾根等へ迷い込むようなことはないかと心配したが、迷い込めそうなところはなかった。冷ノ池あたりへ引返したときはもう暗かったので西俣へ下る例の尾根もよくわからず、少々迷った。スキー・デポから北俣と西俣の出合まで八〇〇メートルの下りは、谷全体がとてもすばらしい粉雪で、暗くなかったらいくら僕でも三十分とはかからなかっただろう。また一ノ沢あたりもなかなかいいところだった。
 鹿島村では狩野久太郎様のところへ泊った。とても親切な家だったし、山小屋と違うので二十時間の登行もこたえなかった。それはすぐ後の二月十三日に寝具さえない畠山の小屋から針ノ木岳と蓮華岳に往復したんだし、二月十五日には上等の山小屋だったが、猿倉から白馬岳へ登って神城かみしろ駅まで歩けたくらいなんだから。天候は一番悪いときだったが、まず二日に一日は山に登れると思った。しかし完全に晴れた日は、僕のいた二月八日から二月十五日までのあいだに十二日の一日だけであった。狩野様は鹿島岳の奥が晴れると快晴になると言ったし、大町あたりの笛や鐘の音が聞えると天候は崩れるとも言った。鹿島岳へ入った凄い連中の話を聞いただけでも来た甲斐があった。



昭和六年二月二十七日 快晴 室堂午前七・〇〇 雷鳥沢八・〇〇 別山乗越一〇・〇〇 長次郎谷の下一〇・四〇 長次郎谷の上午後三・二〇 劒岳四・二七零下十三度 長次郎谷の上五・〇〇 長次郎谷の下六・一〇 別山乗越九・二〇 雷鳥沢一〇・〇〇 室堂一二・二〇
 室堂から雷鳥沢までは去年と同様、室堂の東側を下って谷伝いに行った。雷鳥沢は右側の尾根を登ったが、途中までうまく谷へ入らぬと雪のかたいところがあって困る。別山乗越の小屋はすばらしそうだが、芦峅の人夫を連れないと入れぬらしい。劒沢は傾斜はゆるし、雪はよし、スキーの下手な僕にも愉快に滑れた。三田平みただいらにはまた小さい小屋が建ててある。その東側にちょっと離れて六字塚が雪に半分ほど埋れていた。それが去年の正月大変お世話になった方々のものだと思うと、何かしら胸に迫って、身体が引き締ってきた。しかもその辺にはまるで雪崩の跡もなくほんとに不思議でならなかった。長次郎谷は雪崩でだいぶ荒されているが、傾斜はスキーに理想的で、谷も思ったより広い。しかしこの谷は日当りがよいので快晴の日は油断がならぬ。この日は午前中に小さいのが数カ所、主に八峰側から出ていた。しかも雪が随分重く不愉快だった。長次郎のコルには雪庇はなかったが風のために少し雪の窪みができていた。コルから上はちょっとのあいだなかなか急な斜面だった。それでも雪がやわらかだったからピッケルの必要はなかった。劒岳の頂上には例の如く朽木の柱が立っていたが、二尺ほどしか出ていなかった。僕は手帳の紙に消炭で名前を書いてそれにはさんでおいた。長次郎谷の下りはクラストの雪で面白くなかった。それなのに劒沢は相変らず粉雪状態だった。思うに風当りのよい谷は一日くらいの快晴ではまだ大丈夫らしい。劒沢の登りは長かった。長次郎谷の下までくらいコッヘルを持ってきておけばよかったろうと思った。別山乗越まではスキーで登ったが、一歩雷鳥沢へ入ると風で雪がとてもかたくなっていてアイゼンなしでは歩けなかった。また下の方は一日の快晴で雪がばりばりのクラストになっていて、スキーの下手な僕は滑っているときより転んでいるときの方が長かった。谷を下り切ってからも室堂までは時間がかかった。それでも天候がよかったのでひどい目にも遭わず、実に幸運だった。劒岳へ登るのに長次郎谷を往復すれば最も簡単だ。しかし雪崩については充分注意をしなければならぬ。しかもこのルートによる登頂は価値が少なくない。我々はわざわざ劒岳までスキーに行くのではないから、やっぱり尾根を行きたい。二月の終りにもなると天候が真冬とは違ってくる。僕のいた二月二十二日から、三月三日までのあいだに九十時間もつづいて荒れたことがある。そのかわり完全に二日間快晴になったこともあった。温度はかつて知らないほど低いのを計った。雄山の頂上で午前十一時だったのに零下二十一度にも下った。真冬より三月頃の方が温度の上下が烈しいに違いない。しかし室堂は去年の正月とは比較にならぬほど暖かだった。これは積雪量と室堂の埋り方によるものだろう。
(一九三一・五)
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槍から双六岳および笠ヶ岳往復







昭和七年二月十日 晴 六・〇〇槍肩 一一・〇〇樅沢岳 〇・〇〇双六岳 一・〇〇樅沢岳 六・〇〇抜戸岳 八・〇〇笠ヶ岳―九・〇〇―一〇・〇〇笠ヶ岳―抜戸岳間のコル 二月十一日 曇―雪 〇・〇〇―一・〇〇抜戸岳北側のコル零下二〇度 三・三〇―四・〇〇二五八八・四メートル峯の南のコル零下一〇度 七・〇〇樅沢岳 二・二〇槍肩
 槍肩の西斜面は風がよく当るので、快晴の日でもあまり温度は昇らないらしく、雪は単に風成板状になっているだけで、東斜面のように凍ってはいなかった。今冬は冬と思われないほどよいお天気がつづいたので、日当りのよい斜面の雪はたいてい氷になっていた。おかげで槍の穂先の登攀は愉快だった。しかし正月頃に登った人のカット・ステップの跡が残っているのには少々きょうをそがれた。西鎌尾根には別に悪場と思われるようなところはなかったが、でこぼこが多く、尾根もあまり広くはないから、スキーを履いて歩くのは相当に困難だろうと思った。前樅沢岳もみさわだけという山は、横を巻く夏道が出ていたので帰りに通ってみたが、巻かずに尾根通り乗越した方がずっと安全だと思った。樅沢岳の頂上で荷物を置いて双六岳へ往復したが、帰りの樅沢岳への登りは案外時間を食った。やはりここは夏のように横を巻いて、笠ヶ岳へつづく尾根へ出た方がよいだろう。双六の小屋は、今年は雪の少ないためか、あるいは風の吹き廻しによるものか、遠目ながら大部分露出して見えた。しかも近年相当に修繕を加えたらしく、新しい木の色がしていた。この附近はすばらしい斜面が多く、眺望も実によいところだから、スキーをしながら二、三日くらい遊んでみたいと思った。樅沢岳をくだってから抜戸岳ぬけどだけへ取付くまでは、尾根が殊に広く、雪も思ったほどかたくないのでスキーを使えば面白そうである。途中二五八八・四メートル峰の南のコルから左俣谷へはすばらしい斜面がつづいていた。抜戸岳へ取付く雪の壁はちょっと凄く見えたが、かかってみれば案外簡単であった。そこは夏道のついているカール状の谷で、両側には岩の尾根が走っている。抜戸岳には左俣側へ向って、のぞくこともできないほど大きな雪庇がつづいている。しかし反対側の打込谷に向った斜面はゆるく、雪もかたいので案外楽であった。抜戸岳から笠ヶ岳までの尾根は平凡で、雪庇もあまり出ていなかった。この日は笠ヶ岳の小屋へ泊る予定だったので、四年前の夏の記憶をたどってあちこち探してみたが、どうもわからない。雪に埋れていたのかもしれないが、別石の囲いのしてある小屋跡らしいものもあったから、その後こわれてなくなったのだろうときめてしまった。笠ヶ岳の頂上には大きなケルンが三つほどあった。その一つの中に名前を書いた紙を記念に挾んでおいた。だいぶ引返して抜戸岳とのコルでコッヘルを使用して夕食をした。缶詰の牛肉と甘納豆で、殊に甘納豆はうまかった。そこからちょっと歩いたところでひょっと懐中電灯を取落したら、見る見る打込谷の方へ転び出して、大変な勢いで飛んで行ってしまった。やっと止ったことは止ったが、随分下の方なので、一時は捨てて行こうと思った。しかし真暗ではとても歩けないので、思い返して谷底の光をたよりに下って行った。幸い岩場もなく、斜面もあまり急ではなかったからよかったが、雪が柔くなってからもなおだいぶ転んでいて登りには相当時間を食った。抜戸岳を越して、例のカール状の谷を下りきってから、コッヘルを使ってレモン・ティをこしらえながらしばらく休んだ。そのとき懐中電灯が急にぱっと消えてしまった。電球の線が切れたようなので、新しいのと換えてみたがそれでもつかない。電池も新しいのと換えてみたりしていろいろ苦心をし、だいぶ考えた結果他の所に故障ができたのだと思って諦めてしまった。後で新しい電球も切れていることがわかったが、そのときはマッチの火で調べてみて、二つとも切れているようには見えなかった。それでもう一つほんとに新しいのがあったのにつけてみなかったのは残念だった。それからは雪あかりをたよりにしてゆっくり歩いた。幸いお天気がよいので遠山もぼっと見えて迷うこともなく無事に二五八八・四メートル峰の南のコルまで歩けた。ここでまたレモン・ティをこさえながら早く夜があければよいと思ってゆっくり休んだ。その頃は夜中より温度が上ったので変だと思っていたら、夜があけてみると空はいつの間にか曇っている。そのうえ東の空は朝焼けをしているし、殊に西の方、白山の上空は一面に薄黒い雲に覆われているので、天候が崩れ出していることがわかった。やがてあたりの空気も湿っぽくなってきて、前唐沢岳を越した頃にはばらばらっとみぞれが落ちてきた。そして霙は間もなく雪に変って、あたりの山さえぼっと霞んでしまった。大急ぎで進んで行ったが、睡眠不足と過労のため思うように歩けなかった。それに雪が降り出してからは少々空腹を感じても、食事をしなかったので一層元気が出なかった。こうしたときこそコッヘルを使ってうんとカロリーを取っておかねばならぬのだが、なかなかこのちょっとした余裕を作る気にはなれないものだ。幸い吹雪はあまりひどくなかったし、スキー等邪魔になるものはもちろん、ルックザックの内容は一貫目もなかったから無事に槍肩へたどりつくことができた。槍肩への斜面は足元の雪が板状になって崩れ落ちるので非常に不愉快だった。小屋に着いた頃は吹雪もひどくなったので、早過ぎると思ったが泊ることにした。小屋はとても完全で、雪等少しも入っていないし、東側の窓のところにスコップが置いてあるので、そこを掘れば楽に入ることができる。こんなよい小屋はあまり他にはないと思った。
(一九三二・一二)
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初めて錯覚を経験したときのこと







 それは昭和七年三月二十、二十一日の連休を利用して、但馬と因幡の国境につらなるひょうノ山―扇ノ山の尾根を縦走中、吹雪のためにあやうく凍死せんとしたときのことであった。
 氷ノ山の麓で、大久保村へ泊る山友達B・K・Vの人々と別れたのは十九日午後十一時半過ぎだった。その頃はもう雪がちらつき出していて、氷ノ山越えの道は一層淋しかった。急な登りになる手前の杉林の中で、風と雪をさけながらスキーに張りシールを張る。張りシールを張るのは初めてなので相当苦心をした。川を渡って夏道通りに登り、八四〇メートルくらいの杉林の中にある地蔵堂に着いたのは、翌午前三時頃だった。だいたい今日の予定は、この堂でしばらく休み、すぐ出発して氷ノ山へ登り、引返して国境の尾根を北へ縦走し、一日で扇ノ山の手前にある三ツヶ谷一二三九・三メートルを越し、その山麓の菅原村に泊ることにしていた。しかしこの堂に着いた頃は降雪が激しく、天候も恢復の見込みがないので、すぐ出発することを見合せた。やがて夜も明けた七時頃、住友の人々が吹雪をついて登ってきたので、力を得てその後に従い、なんなく吹雪に狂う氷ノ山の頂上に立つことができた。それはすでに十一時頃で気温も零下七度まで下っていた。住友組はもう少し南のところから春米村に下るというので、別れて氷ノ山越えの峠に引返す。その途中でB・K・Vの人々に会い、お互いに天候の悪いのをグチる。峠に着く頃からシールがまくれ出したので、B・K・V組の下ってくるのを待ち、糸を貰ってシールを縛りつけた。
 赤倉の頭で鉢伏へ行くという一行と別れて国境の尾根を下る。ここの上部は少々悪場だったからスキーをぬいだ。しかし下の方は好斜面つづきで、殊に小代村から春米村へ越す桑ヶ峠の附近は広々とした真白い雪原で、すばらしいところだった。この峠の北にある峰一〇五九・五メートルを登っているとき、春米側の谷に住友組の下って行くのが見えた。エーホーと声をかけてみたが遠いのでおそらく聞えなかっただろう。この峰からはまたブナの大木に覆われた傾斜のゆるい随分広い尾根つづきで眺望がきかぬため、深い山の中を歩いているという感じがする。しかし国境尾根から離れて西側へ飛び出している陣鉢山一二一三メートルへの尾根は痩せていて、杉の木が生えているところもあり、そのうえ北側は割合眺望がきくので人臭い感じがする。陣鉢山の頂きに立ったのは午後六時頃であった。頂上では木が繁っていてよく見えなかったが、諸鹿村へ下る尾根はなかなかきつそうだ。また国境尾根に引返し、コッヘルを使用して夕食をする。吹雪のときは暖い物でないと駄目のようだ。
 そこから一時間ほど進んだ頃ちょっと登って後、急な降りになっている。ここで左の大きな尾根に迷い込んだが、右側の尾根が本尾根であった。本尾根はちょっと痩せていたのでスキーをぬいだ。その頃から張りシートがまたまくれてきて登行が困難になった。取付シールを持たなかったことを後悔する。そのうえシールが不完全なため杖に無理がきて、半分折れていた片方の杖が完全に根本から折れて、リングがはずれてしまった。修繕するのはうるさいと思ったのでそのまま捨ててしまったが、リングの無い杖は殆んど役に立たない。この晩は霧が深くて方角もわからず、地図を見たり考えたりするのに時間を取られ、そのうえシールがまくれてゆるい登りでも後辷りするので、意外に道がはかどらなかった。
 二十一日の朝になったが、天候は少しもよくならない。ちょっと登りがあったので一〇五七メートルの峰だと思う。そこでまたコッヘルを使用して朝食をした。これで食糧は完全に無くなってしまった。しかし三ツヶ谷まではそう遠くはないし、あそこには何度も登ったことがあるので、どんなに霧が深くてもわけなく菅原村へ下れると思って安心していた。ところが事実はそうでなく晴天の日に登った経験はなんら用をなさなかった。朝食をしているとき、鉢伏山から氷ノ山につづく大平附近の尾根の下部が霧のまにまに隠見する。
 それがちょうど三ツヶ谷や扇ノ山附近に見えたので、つい小代谷へ下った尾根を国境尾根だと感違いしてだいぶ迷い廻った。もちろん最初にこの尾根は怪しいようだと思えば、磁石も出して見るし、よく考えても見るから間違いはないはずだが、たしかにあれは、国境尾根に違いないと思うとそれに気を取られて後戻りしていることさえ気がつかなかった。正午頃霧がはれてあたりの山もよく見えたし、鉢伏山へ登りつつある人々さえ見えたのでちょっと安心した。ここまでくると附近の森林は切り払われていて、小代谷側は真白い斜面が下までつづいている。
 かつて僕は雪の無いとき、この谷を登ってきて三ツヶ谷の頂上に立ったことがある。下の方にはちょっと田圃たんぼがあり、中腹の尨大な斜面には杉苗がまばらに植林されてあった。しかし頂上附近はやはりブナの大木とスズ竹の物凄い藪であったから三角標石を探すのに随分と苦心をした。そのとき氷ノ山や鉢伏山にも登って三角標石の横に一寸ぐらいの柱を記念にたてた。しかし氷ノ山にはその後測量台がたったので取りのけられたらしく、今は見あたらない。三ツヶ谷の手前の峰への登りは相当大きなものであった。傾斜のゆるいあいだは階段登りで進んだが、急なところはスキーをぬいで歩いた。空腹と睡眠不足がこたえてきたし、風陰で割合暖かだったので居眠りをしながら登った。
 しかし、この峰の頂きに登った頃はまた物凄く吹雪いてきた。そこからちょっと進んだところで不注意にも雪庇をふみはずして小代谷側へ落ち、ひどく身体を叩き付けられた。高さは四メートルくらいのもので、その下はあまり急でなかったからちょっと流れただけで止った。しかしこの急な雪庇を登るのはつらかった。三ツヶ谷の頂上は長くなっているので、南の方から登って行くとどこが最高点だかわからない。それでも午後六時頃には頂上に立っていた。そして間もなく何度も通ったことのある道を東へ下って行った。ところどころ記憶にあるところが出てくるのでもう大丈夫だと思っていた。ところがそのコルへ下り着いたときは、夜がやってきて地形がまるでわからなくなった。そして記憶に無い長いゆるい斜面が出てきたとき、どうも変だ、間違って小代村へ下りつつあるようだ、と思うようになった。それは周囲の山がすべて濃霧にとざされて方角がわからないのと、快晴の日の登山は、自分の歩いた道をあまり頭に入れていないためである。なお疑いながら進むうち、右手の谷の木の無い真白い雪原が出てきた。僕はそれを見てあれは確かに小代村附近の田圃に違いないとこう思ってしまった。恐ろしい感違いだ。実はこの木の無いところは木地屋きじやという椀や杓子しゃくし等のほり物をする人が、雪の無いときやってきて木を切ってしまったところである。随分と下ってきたようだが間違ったのだから引返さねばならない。だが今はあまりにひどい吹雪になっている。恐らく尾根の上は一層物凄いに違いない。それで一時ここで雪の止むのを待った方がよいに違いないと思って、風陰を探しながら歩いていると、また雪庇をふみはずし、こんどはまっさかさまに投げ出されてぞっとした。僅か二メートルぐらいのものであったがひどくこたえた。早速雪庇の下を掘って入る。
 僕はこんどのスキー行は三月も終りに近いことだから大して雪は降らないだろうし、現在積っている雪もこれまでの経験から、昼間だけはザラメ雪となるが朝夕はカリカリの雪で、靴のまま歩いても楽に違いないと信じていた。だから国境尾根の縦走だって一日あれば充分だと思って、食糧として弁当を一日分と少ししか持たなかった。もちろん一日や二日は絶食しても歩ける自信はあった。しかしこの湿気の多い風と雪は、信州の山では完全な防水布の手袋や防寒具をわけなくしめらせて、肌着まで濡れてきた。手もそろそろ感覚が無くなり出したし、吹きつける雪が顔の表面を雨のようになって流れて、熱をうばうし、肌着が濡れているためか、背筋の方にゾッと寒さを感ずるようになってきた。これにはさすがに参ってしまった。それでもアルコールが少し残っていたので、コッヘルで湯を沸かして呑んだ。そしてできるだけ元気を出して前と横に雪の囲いを造った。こうしているうちもときどき居眠りをしていた。やっと半メートルぐらいの相当完全な囲いができたので、あるだけのものをきてルックザックを下に敷き、その上に横になってみた。しかしほんのちょっと眠っただけで、ひどい寒さのため目がさめた。あまり寒いのでその雪の孔から飛び出し、サムイ、サムイと大声で悲鳴をあげながら体操をしばらくつづけた。しかしすぐ眠くてたまらなくなり、また雪の孔の中に戻って横になった。こんな天候の悪いときに、しかも雪の孔の中で、寒さを感じながら眠るというのは無謀なことだった。しかしこのときの僕はいくら眠るまいとしても、それにうちかつことはできなかった。この折の眠さは単なる疲労や睡眠不足ではなく、凍傷からきたものだと思われる。でもすぐまた寒さのために目がさめた。このとき初めて、このまま眠り込んで凍死するようなことになっては大変だと思った。そこで早速荷物をまとめ三ツヶ谷の頂上を目指して登って行った。しかし杖は一本しかきかぬし、スキーにはシールがついていないので、階段登りしかできず、行程はなかなかはかどらない。もちろん疲労もはなはだしく、歩きながら居眠りをしていることが多かった。この頃からそろそろ錯覚を起し出したらしく、雪の色が黄色く見えてきた。また木に積っている雪がちょうど紙切や、旗や、提燈等に見え出した。そのとき僕はやっぱりこの辺にも木地屋が登ってきて、七夕祭のときに飾る竹のように木を飾っておいたのだろうと思った。そして近づいて行って杖でそれに触ってみて、初めて旗でも提燈でもないのに気がつくのだった。また歩いていても下半身は全然自分の身体のような気がしなかったし、肩を杖で打ってみてもかすかにしか感じなかった。それで僕はまださっきの雪の孔の中で眠っているか、もしくはその前に雪庇から落ちたようだが、あのまま倒れていて、今夢を見ているのではなかろうかとこう思って、声を限りにどなってみた。しかしその声はかすかに聞えるだけで、その夢を破ることはできなかった。
 やがて二十二日の朝がやってきた。その頃はもう雪は止んでいたが、濃霧は相変らず風にあおられていた。そして三ツヶ谷の頂上に近くなった頃は僕も極度に疲労してきて、後二〇メートルほどがどうしても登れない。僕はいくら夢を見ていても、登れるという自信があったら必ず頂上に登った夢になるだろうと、こう思って努力してみたが駄目である。ついに頂上へ登ることを諦めてしまい、横を巻いて北へ進んで行き、ようやく一つ北の尾根へたどりついた。けれどもこれを頂上へ登ることも大変だし、これから先にも相当に登りがあることだから、もう国境尾根縦走を止めて小代村へ下ってしまおうと、こう思ってついに決心をひるがえしてしまった。
 やがて滑降が始まった。しかしスキーは下手だし、半分眠っているような状態でどうして満足な滑降ができよう。ちょっと辷ってすぐ自分から身体を投げ出すようだった。あまり苦しいので、歩いて下った方が楽に違いないと思って、スキーをぬぎ、それを一つずつ谷へ向って辷りおろした。両方ともあまり遠くないところで止った。それから歩いて下るつもりだったのに、スキーをぬぐと何だか急に休みたくなり、ルックザックをおろして、それに腰をかけてしまった。
 その頃はもう風もいでただ霧がかかっているだけだった。そうしているうちに疲れが出てきて、立ち上ることを全く忘れてしまった。そして僕は、もう駄目だ、ついに自分にも終りがきたのだとこう思い出した。そして死ぬということが非常に恐ろしくなり、悲しみの声をあげて泣いた。やがて、このスキー行がすんだら会えるだろうと思っていた故郷の父や、親しい友達のことがぼんやり頭に浮んできた。また会社の方が欠勤になることを昨日から悩んでいて、上の人にどう弁明しようかとか、山から下りたらすぐ電報を打って届を出してもらおう等と考えていたが、死んでしまえばその心配もいらなくなったと、ある気安さを感じた。その他金銭貸借上のこと等が次から次へと浮んできた。しかし僕は死んだのち多くの人に、僕が無謀な山行をしていた当然のむくいを受けたのだと、種々欠点をあげて非難されだろうこともごうも残念だとは思わなかったし、僕の死体を探すために出される捜索隊のことや、その他いろいろとみんなの厄介をかけること等はまるで頭の中に浮んでこなかった。それは僕の性質に欠陥があるためだろう。そのうちに頭も疲れてきてついに何も考えられぬようになってきた。そして間もなく眠るが如く、ぐったりと倒れてしまった。
 それから四、五時間もたった頃、僕は突然われにかえった。気がついてみると、やっぱり僕は三ツヶ谷の直下で倒れていたのだった。空はもうからりと晴れ上ってすばらしいお天気になり、暖かい太陽が斜め上に赫々と輝いていた。そのときの僕は嬉しさのあまりこおどりした。唄を歌った、力一杯どなってもみた。そして更正の喜びにひたったのだった。もちろんあたりの懐しい山も谷もすべて、僕の蘇ったのを見て、一層晴やかな顔を見せてくれた。だからもう僕は迷い廻ることはなく、スキーを履くと一直線に昨日のコルへ下って行った。
 そしてコルに着いたときは、こんなところで迷っていたとは思えないのだった。例の昨日の田圃だと思った木の無い谷では、すでに山猟師がやってきて兎狩をしているのだった。エホーと声をかけてみたが、彼等は狩に夢中になっているらしく返事はなかった。それからしばらく国境尾根をたどり、長いゆるい斜面をまっすぐに北へ向って辷って行った。その後二つの浅い谷を越すのに、空腹のため相当時間がかかったが、なんなく菅原の村までスキーを履いて降ることができた。もちろん村の近く急斜面では転んでばかりいたが、嬉しくてスキーをぬぐことができなかった。そして先年泊ったことのある家に行き、おかゆを御馳走になってほっとしたのは午後六時だった。すぐスキーをまとめてここを出発し、雪深い道に悩みながら、それでも元気で下って行った。ちょうどこの日は月蝕の晩だった。菅原から六キロほど下った田中という村の辺では雪の無い道となった。湯村まで歩いて、ここから浜坂駅まで自動車を飛ばし、時間がなかったので家にも寄らず、二十三日午前一時四分発の汽車に乗ってしまった。だからその日は会社で働くことができた。もちろん社ではたびたび居眠りをしたが、もう凍死の心配はなかった。
 さてこの遭難の最大の原因は何であろうか。もちろん僕の悪い性質(天候が悪いのにもかかわらず、無理に決行しようとする)のためであったろうが、それにしても準備不足ということが第一であったに違いない。その中でもシールの張りつけが不完全であったこと。すなわちワックスの適当なものを持たなかったのが一番悪く、食糧の不足がその次である。防寒具の不足は最も恐ろしいことだが、雪の中で安全に眠れるほどに持つことは、スキーの下手な僕には無理なことだ。またスキー杖の半分折れたのを持って行ったことも悪かった。防水布の手袋は信州の山ではよいと思ったが、このときは降雪や転倒のため濡れて、殆んど防寒具にならなかった。その他取付けシールや吹雪用の頭布等を持たなかったのも欠点である。それから未知の山であったということはどうか――これは大して影響しなかったと思う。何故ならあんな天候の日には少々知っていても、未知のところと同じように迷うだろうから。
 その他気づいたことは――吹雪の日にはコッヘルを使用することによって安全な食事をすることができる。冷い食糧は駄目だ。雪上で眠ることは危険だが、温かい物を食った後なら(極度に疲労していないなら)凍死するほど眠り込まないで、ある時期になれば気がつくだろう。二人以上いるなら交代に眠り、必ず一人はコッヘルで熱い飲物をこしらえながら起きていること。ひどい吹雪でなければ、眠るより歩いた方がよい(非常にゆっくりと、あるいは居眠りをしながら)。腰をおろして休むときには眠り込まぬようにコッヘル等を利用すること。以上のように終始コッヘルを利用することが一番よいと思う。もちろん疲労や睡眠不足を完全に補う薬があれば一番よいのだが、残念なことに僕はそれを知らない。
(一九三三・一)
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冬富士単独行







 細野へ行く山友達とともに、いつもの急行で神戸を出発した。この汽車は御殿場へ行く僕にはあまり有難くなかったが、友達の友情に引きずられたのだった。だいたい僕は岩登りも、スキーも下手なのでパーティの一員としては喜ばれず、やむなく一人で山へ行くのであって、別にむずかしいイデオロギーに立脚した単独登攀を好んでいるわけではない。だから汽車の中など、少々足手まといになっても、お互いの生命まで関係しないときは山友達もともにいることを許してくれる。
 名古屋では乗換に間があったので、荷物をプラットホームにおいたまま駅前の通りをぶらりと歩いてやがて時間がきたので構内へ入ってみると、さっきおいた荷物が見えない。大あわてにあわてて駅員から駅員と走り廻り、やっとそれが案内所の方へ忘れ物として廻してあることがわかったが、それを受取りに行って汽車に乗込むまでの忙しさといったら一通りや二通りではなかった。
 さて汽車に乗込んでみると相当満員のうえ皆よく寝ている。とても僕にはそれを起す勇気は出ない。僕は闘志を強くするために山へ行くのだと思っていたが、どうしたわけか山へ深入りするほど闘志が弱くなっていくような気がする。人と人との闘いに負けて山へ逃げて行くのが現在の僕なのだろうか。
 静岡のあたりだったか勇敢な人がたった一人できて大声で「満員になりましたから皆起きて下さい」とどなったので寝ていた人は皆驚いて起き上った。そのとき彼の人は悠々と歩いて行って、一番気持のよさそうな席へすわり込み、すぐ居眠りを始め出した。僕は思った――こういう人こそ今の世の中では一番成功するひとなんだ――他人のいうことを気にしていたり、どうしたら他人の邪魔にならないだろうか、こうしていたら他人に心配を掛けずにすむだろう等と小さいことまで考えている者はやがて自滅の運命をたどるであろう。
 三島の附近から夜あけの富士が見え出したので車中はひとしお賑かになった。僕の前にすわっている人が僕にどこへ行くのかと聞くので、富士山へ登る予定だといったら少なからず驚いて、君はどう欲目に見ても、富士山へなど登れそうにないという。もっともだ。この寒い冬の最中に上着も無く、カッター・シャツを着ただけであり、足には地下足袋を履いている僕を見ては誰だってそう思うだろう。それにこの人は汽車へ乗込んできたとき小声で「皆寝ていやがってすわるところもないや」とつぶやきながら立っていたほどだから、恐らく情の強い人なのだろう。僕のことを心から心配しているようだった。こういう人は将来損だと僕は思う。なぜならこの人は情が強いために他人が危地へ陥るのを助けようとして自分の力の全部をなげ出し、やがて自分が危地に落ちて行くに違いない。少なくとも他人の苦しむのを気にしているあいだは、今の世の中ではとても成功はできまい。
 御殿場の駅で見た富士山は僕の頭を圧して被いかぶさるようにつったった実に物凄い雪の壁だった。あの雪の壁が一度にどっと崩れてきたらどうしよう。どこにもかじりつけそうな岩尾根はないではないか。あんな凄い壁をどうして人は登るんだろう。せめて氷でもならアイス・ハーケンにものをいわせようが、あのような雪の壁など、どうして僕に登ることができよう。「やめようか」そう思ったけれど、せっかくここまでやってきたんだ。闘わずして退くなどはあまり残念だ。――そうだ。闘ってみよう。――全力をつくして闘った後なら頂上へ登れなくとも思い残すことはない。全力をつくして闘うところに価値があるのであって、頂上へ立つことのできるのはその副産物に過ぎないんだ。
 御殿場は太郎坊附近がスキー場になっているので、名古屋鉄道局管内ならスキー割引の切符が発売されているし、乗合自動車が馬返しまで行ってくれる。
 太郎坊はスキー客で相当賑かだった。午前九時早めの昼食をして、この日早朝出発した観測所の人々の後を追った。この附近で見た富士山は広々とした真白な斜面がどこまでもつづいていて、御殿場で感じた凄みはなく、平凡な山としか見えない。大急ぎに急いでやっと三合目の附近で皆に追いつき簡単に挨拶をした。そのとき、案内人らしい人が僕に「一人で――案内もつれないとは無謀ではありませんか」という。もっともだ。一年に数十万人も登る富士山にたった一度夏にきただけで、すぐ冬季にこころみるなど無謀に違いない。けれど闘志を強くするためか、あるいは逃避のための山行なら案内がいろうはずがない。そのうえ案内人もろとも遭難する場合を考えると、気の弱い僕にはとてもやとう気がしないんだ。
 それから皆と一緒に、宝永山の北側の浅い谷を登って行った。雪は風に少し作用を受けた粉雪で、ラッセルも無く非常に楽だった。皆は五合目の観測所の小屋に泊るので、僕はそこをスキー・デポとしてアイゼンを履き、中食ののち、宝永山の尾根へトラヴァースした。この附近はまだ雪がやわらかくだいぶもぐるところがあった。しかし尾根へ出てからはアイゼンで気持のよい堅雪だった。七合目附近から暗くなりだしので、安全第一と、この尾根を離れて左へちょっと巻き、宝永山の火口の真上の夏道のついている谷へ入った。この谷は風が当らないためか雪が非常にやわらかく、ひどくもぐってとても困った。そのうえ空腹を感じても食事をする余裕が出ないので、あえぎあえぎ登ったため非常に時間がかかった。あまり苦しいので右へ巻いて元の尾根の上へ出た。この尾根は雪が理想的に締っていてとても楽だった。帰りにもこれを下ってみたが、悪場など一カ所もなく平凡な尾根で、夏道の谷へ入らず全部これを伝っていたらよほど楽であったに違いないと思った。もちろんスキーで登るなら夏道の谷が第一だと思う。この尾根も最後は少し傾斜が急で岩も出ていたが、危険を感じるようなところではなかった。そして観測所の少し東の台地へ登ることができた。観測所には電灯が煌々と輝いていて、まるでよく開けたスキー温泉場のような感じがした。非常に疲れていたので早速観測所に入って、食糧も寝具も持っていますが泊めてもらえませんかと技師の人に頼んでみたが、気象台長の許可がないと泊められないとのことだった。それでも死にそうなほど苦しんでいる場合にはやむを得ず泊めるともいわれた。これはいつもの如く、僕の気がきかないために起った失敗らしく、太郎坊あたりで電話でも掛けてよく頼んでおけばこんなことにはならなかったに違いない。あるいはまた一緒に途中まで登った観測所の人にだけでも話しておいたらよかったであろうが、どうやら案内もつれず一人で登ったということが皆の気に入らなかったらしく、やがてそれが頂上の人々へ電話で報告されたものであろう。しかしそれとても僕がもっともっと努力して一生懸命に頼んでいたら、決して泊めないとはいわなかったであろう。何事によらず最後の五分間だけでも必死になって努力したならば必ずや光明を見出しうるに違いない。
 やむなく観測所の番人梶さんの世話で富士館というのに泊ることにきめ、しばらく休ませてもらったうえ、懐中電灯までお借りして出かけた。富士館は一月ひとつきほど前、鈴木伝明一行が使用したためか壁板がめくってあったので楽に入ることができた。館内には寝具等なんにも無いが、雪があまり入っていないのが何よりだった。大変疲れていたためか食事をしてもすぐもどしてしまった。室内温度は零下十二度くらいだったのに非常に寒く感じた。
 やがて昭和八年の元旦がやってきた。初日の出を慕って午前六時剣ヶ峰へ向う。外は強い西風が吹きまくっている。間もなく剣ヶ峰へ立つことができたが南の山すら雲に被われていて、楽しみにしていた北の山は少しも見ることができなかった。しかし東の空はよく晴れていて――午前六時四十分――雲の上から出る初日の出は実に荘厳の極であった。
 お鉢廻りをして観測所へよると、技師の方々が「昨日はどうも失礼をした」といって、お正月の御馳走を次から次へと出すので少なからず僕は驚いた。大変御馳走になったうえ、茶瓶からコップへなみなみとつがれたお酒をお茶だと思ってぐっと飲んで、しまったと思ったが仕方がない。そのままお礼をいってお別れをし、ほんとに明るい気持で富士を下りて行った。
(一九三三・一一)
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山に迷う







 今年の二月、ずっと以前からあこがれていた近江の金糞ヶ岳へ登ろうと思って、伊吹山の西麓をまき伊吹や東草野の村を伝って歩きました。今年は近年にない大雪が降ったので附近には雪が三、四尺も積ってます。そんなにたくさんの雪が積っているのに、村を出るとその深い雪を掘り上げて綺麗に道があけてある。不思議におもってそれをよく注意していると、その道が小学校のあるところまで蜒々と数里もつづいていることがわかりました。子を思う親心はどこでも同じことなのでしょうが、かほどまでに強いものかと私はしみじみ身にしむのを感じました。その晩夜通し歩いてやっと朝がたに甲津原に着きましたが、不運にも天候は崩れて山は濃い霧がかかってしまいました。
 甲津原には三つの大きな谷が落合っております。地図によると東側の谷は美濃の貝月山へ登る谷で、金糞ヶ岳へは真ん中の谷を上って、三角点一〇七四の北側を越し向う側の広瀬浅又の谷から登るのが一番よいように思われます。しかし実際はこの谷は西側の谷よりずっと悪く、かつ一〇七四メートルの北側は尾根も谷も地図以上に痩せている上、傾斜も急でスキー・ルートとしてはよくありませんでした。
 その日一〇七四メートルには登りましたが、濃霧のため迷って、金糞へは行けませんでした。で、つぎの日曜にはぜひ登ろうと決心し、スキーはそのまま甲津原に置いて帰ってきました。そして日曜のくるのを待っておったのです。ところが土曜日になって、故郷の父が最近急に悪くなったそうだからすぐ見舞いに帰ってみないかといって姉がわざわざやってきた。そして「山」に迷っている私をさんざん責め立てたのです。けれどその頃の私はそれくらいの忠告で気のつくような浅い迷い方ではなかったので、その晩はまた子を思う親心に泣きながら甲津原への道を辷っていました。翌日はすばらしいよいお天気で、甲津原から西側の谷を上り切り、尾根伝いに金糞ヶ岳へ登頂することができました。頂上からは三角点一二七一や一〇五七を縦走して道の記入してある尾根を下り高山へ出ました。
 つぎの日、私は会社へ「父が大変悪いそうですから見舞いに帰ろうと思います。休暇を少しもらえませんか」といってお願いに出た。ところが「君の父は山の中で病気をしているのではないかね」と上の人が皮肉をいうのです。実際そういわれても仕方がない。どうもない親を病気だといってまで山へ行くほどの不孝者ではないにしても、山へ行くときにはあっさり休暇を使いながら、父の病気見舞いには休暇をもらうことを惜しんでいた私なんだから。しかしなんといわれても見舞いに帰らねばならない。一人しかいない親なんだし、末子でわがままな私のことを一番心配している父なんだもの。
 わが家へ帰ってみると、一時大変悪かった父もだいぶ恢復していたので大いに安心した。父は生来無口で思っていることの半分もいえぬ性なのだが、私の顔を見るとすぐ、登山は危険だから止めてほしい。そして早く身をかためてくれといった。母がいたならおまえを今まで独りで置きはしなかったであろうに。自分はどれほどそれを心配していることか、自分の病気はだんだん重くなって行くばかりで、もう全快の見込みがない。そう長くは生きておられない自分だ、なんとか安心させてくれないものか、そればかりが心残りなのだがといわれる。私はそれになんと答えたらよかったでしょう。けれど私には嘘をいうだけの勇気がありませんでした。私は「お父さん心配して下さるな。私には命懸けで愛している恋人があるのです。あなたはそれをよく御存知でしょう」と言ってしまった。ところが父は「ああおまえは何を言っているのか。父が死ぬという間際になってこれほどまでに頼むのにまだ迷いの夢が覚めないとは、おお可哀想に、お前はほんとに恐ろしい者につかれてしまったなあ」と心から嘆くのでした。ああほんとに恐ろしい力だ。忘れようとすればするほど、心の奥へくい込んでくる。どんなに我慢しようとしても駄目だ。ああどうしたらよいのか。ねえお父さんほんの二、三日ですよ、ちょっと行ってきますと言ってしまうのでした。
 鳥取の奥、若桜から西へ三倉という村のある谷に入り、三角点九七三へ登る。この谷は六〇〇メートルくらいから右手の尾根へ取りつく方がよい、尾根伝いに三角点一二八七へ登り、ここより南へ三角点一一二七附近まで往復したが、一一二七メートル附近は地図とだいぶ違っている。それから東山の頂上を極め、登り尾根を下って吉川へ出たが実に愉快なコースだった。翌日若杉峠へ向って行ったが、雪が降っていたため右から入ってくる大きな谷へ迷い、三角点一一五九へ登ってしまった。しかしそのまま大川の谷を横断して沖ノ山の頂上へ登った。頂上より一つ西の峰には展望台があって麓からの里程などが書いてあった。雪が止んで附近の地形がよくわかるので氷昌山へはすぐ下れた。氷昌山には家がたった三軒しかなく、下の村から今日やっと上ってきたところらしく屋根の雪下しを夢中でしていた。氷昌山からはミソギ峠の南側へ登り真白い高原を南へ辿って大海――道仙寺と歩いた。道仙寺の頂上では夜になっていたので瀬戸内海沿岸の燈台の火の明滅しているのが見え、さながら夢の国をさ迷っているような気がした。頂上からは真北に出た尾根を下り、一二〇〇メートルくらいから右の谷へ入ったが、この谷はあまりよくなかった。広い林道に出てからも滝があり、その真上で転倒して肝を冷したりした。西河内は七年以前同じ山から下ってきて泊ったことのある思い出の深い村である。翌日河内を経てショー台に登る。ショー台の南面はスキー場になっていた。頂上からは西の尾根を下り、大通峠を経て三角点一二四四へ登った。ここからは北へ向った尾根を辿り、天狗岩の頂上を極め、なお北へ進んで一一八〇メートル附近から初めて西へ下った尾根へ入ったが、物凄い藪なので右の谷へ逃げた。しかしこの谷もあまりよくなかった。九五〇メートルくらいまで下ってから左へ巻いて元の尾根へ出てみるともう真白な斜面だった。ここは吉川のスキー場なのだろう。シュプールがたくさん残っている。吉川へ下って若桜まで歩いたが、終列車の出た後なのでそのまま春米へ行った。翌日ワサビ谷を登ってみたが、長くて閉口した。二ノ丸から氷ノ山の頂上へのつづきは妙に痩せていて、吹雪だったのでちょっとわからなかった。頂上を越してコシキ岩まで下ったが、二ノ丸、三ノ丸、とつづいた西尾根を下ってみたくなったので引返した。しかし二ノ丸を越して一三四〇メートルにきたとき本尾根が急に下っているのでつい左のゆるい尾根を伝い落折へ下ってしまった。これから若桜へ下ってもまた終列車に間にあいそうにないのであきらめて泊った。翌日戸倉峠から赤谷山へ登った。
 父は二、三日といって出かけた私が四、五日もたつのに帰ってこないし、だいぶ吹雪いたので、あるいは遭難したのではないかとの疑念を起し、私の兄と友人に捜索を頼んだ。二人は若桜に行き、駅長に話し、役場などを尋ねたり、若桜スキー場へも行ってみた。
 そんなこととは少しも知らず、私は山との別離を惜しみながら、ぶらぶらと下ってきて初めて駅の助役さんからそれを聞き、ほんとに驚いてしまった。いくら山に迷えるとはいえ、病気の父にこれほどまでも心配をかけるとは、なんという不孝者であろう。こんな者こそいい加減に山の中で死んでしまえばよいのに。
 けれど父は無事に帰ってきた私の顔を見ては嬉しさの余りものもいえないほどだった。そしてこんなに病気で困っているのだから、たびたび帰ってきてくれと繰返し繰返し言っていた。
 その後私は氷ノ山から扇ノ山を越して見舞いに帰ろうと思って何度も八鹿へ下車したけれど他に氷ノ山の方へ行く人がなく、一人では自動車が大変なので止めたり、氷ノ山へ登っても雪の状態が悪くて一日では扇ノ山まで行けそうにないので引返したりした。三月の終りになってやっと一度機会を掴み、氷ノ山―陣鉢山―三ツヶ谷―仏ノ尾―扇ノ山と縦走して海上に下ったが、意外に時間がかかって故郷の浜坂へついたのは夜中であった。それでも折角見舞いに帰ったのだから朝までは父のそばにいた。父はこれから帰っても大して仕事はできないのだから休んで一日おってくれというのでしたが、気の小さい私にはどうしても会社を休むことができませんでした。
 その後父の病気はだんだん重くなって行くのになお山の恐ろしい力が私を誘惑する。それは前穂の北尾根と槍の北鎌尾根なので、一人では少々不安だ。そうかといって山にはなんらの興味ももっていない案内を連れて行くことは、遭難した場合のことを考えると気の弱い私にはちょっとできない。そう考えているときちらっと吉田君の顔が頭に浮んだ。吉田君は恐ろしく山に熱情をもっていて、山での死を少しも恐れてはいない。そのうえ岩登りが実にうまい。だから私は間もなく吉田君を誘惑してしまった。
 今冬は非常にお天気が悪かったためか、前穂北尾根には凍った箇所はなかったが、岩登りの下手な私がブレーキになったので、第三峰の左のチムニーで露営しなければならなかった。その晩はだいぶ吹雪かれたので、二人とも少なからず消耗した。吉田君は岩場で奮闘したため、手には凍った毛糸の手袋が一組残っているだけだった。翌日物凄い吹雪の中を前穂へ辿っているうち、とうとう吉田君は手の指を凍傷にしてしまった。奥穂の小屋へ帰ったとき、私は疲れはてて食物も吐出したほどで、吉田君の手を摩擦してあげる元気がなかった。
 山を下ってから、吉田君は一カ月余も入院していた。私は吉田君のお父さんに「あんたと一緒だというから安心していましたが」といわれたとき、ほんとにすまないことをしてしまった。たった一人の心の迷いからこうまで多くの人々に心配をかけるとは、おおなんという恐ろしいことだろうとひどく胸を打たれてしまった。それ以来私の心はだんだん変って行った。また故郷の家からは、父の病気はますます重くなって行く、もうそう長くは生きておられないように思うといってきた。私もそう思ったのでもう山登りを止めよう。そしていろいろ心配をかけた不孝をお詫びし、今度こそはほんとにお父さんを安心させようと決心した。そして休暇の貰える日を一日千秋の思いで待っていた。
 六月も終り、故郷の町には川下祭という大祭のある一、二日前、急に暑くなったためか父はついに飲物さえ喉を通らなくなった。そしてもうすぐ私が見舞いにやってくるだろうと、私の兄がなぐさめても父は待ちくたびれたのか、会社の方が忙しいということだからもう帰ってこなくともよいと言っていたそうだが、間もなくものもいえなくなってしまった。
 私が取るものも取りあえず、あわてて駆けつけたときはもう父には意識がなかった。そして祭の太鼓の音がだんだん遠くなり、人通りも少なくなってきたころ、とうとう父はこの世を去ってしまった。私は父に聞いてもらおうと思ってたくさんの言葉をもって帰ったが、ああそれはどこへもって行けばよかったでしょう。
(一九三四・一〇)
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単独行について







 今ここに単独行について書くところのものは私一個人の考察であり、何ら他の単独行者より得たものではなく、多くの独断をまぬがれないと思うが、ともに山へ登るものである以上、ある程度までは共通性をもっているものと信じてうたがわない。
 わが国にも多くの単独行者を見いだすが、大部分はワンダラーの範囲を出でず、外国のアラインゲンガーの如く、落石や雪崩の危険のため今まで人の省みなかったところを好んで登路とし、決して先人の後塵を拝せず、敢然第一線に立って在来不能とされていたコースをつぎつぎとたどる勇敢な単独登攀者(水野氏著岩登り術)とは似ても似つかぬほどの差があるであろう。さてかくいう単独行者はいかにして成長してきたか、もちろん他の多くのワンダラーと同じく生来自然に親しみ、自然を対象とするスポーツへ入るように生れたのであろうが、なお一層臆病で、利己的に生れたに違いない。彼の臆病な心は先輩や案内に迷惑をかけることを恐れ、彼の利己心は足手まといの後輩を喜ばず、ついに心のおもむくがまま独りの山旅へと進んで行ったのではなかろうか。かくして彼は単独行へと入っていったのだが、彼の臆病な心は彼に僅かでも危険だと思われるところはさけさせ、石橋をもたたいて渡らせたのであろう。彼はどれほど長いあいだ平凡な道を歩きつづけてきたことか、また、どれほど多くの峠を越してきたことか。そして長い長い忍従の旅路を経てついに山の頂きへと登って行ったに違いない。すなわち彼こそは実に典型的なワンダラーの道を辿ったものであろう。かくの如く単独行者は夏の山から春―秋、冬へと一歩一歩確実に足場をふみかためて進み、いささかの飛躍をもなさない。故に飛躍のともなわないところの「単独行」こそ最も危険が少ないといえるのではないか。
 つぎに私自身の冬山単独行をかえりみると、昭和三年二月の氷ノ山々群に始まり、翌四年一月夏沢温泉から八ヶ岳への登頂、つづいて冷泉小屋から乗鞍に登り、二月には一ノ俣の小屋から槍ヶ岳に、三月には弘法小屋から立山に登った。翌五年一月には室堂から立山に登頂後、軍隊劔まで往復、また槍ヶ岳に登頂後つづいて唐沢を登り穂高小屋まで往復(前年四月一日唐沢岳に登頂同二日桑田氏とともに奥穂高に登頂)二月には弘法から立山に登り、また奥穂高、唐沢岳および北穂高に登頂(十二月一日、一ノ沢を登り常念小屋から常念および大天井に登頂)翌六年一月、大多和から有峯―真川の奥の小屋を経て上ノ岳の小屋に登り、薬師岳登頂後、黒部五郎―三俣蓮華―鷲羽―黒岳―野口五郎―三ッ岳と縦走し烏帽子の小屋からブナ立尾根を下った。二月には鹿島村から冷沢西俣を登って鹿島槍に登頂し、つづいて畠山の小屋から蓮華岳および針ノ木岳に、猿倉スキー小屋から白馬岳に登頂。また室堂から長次郎谷を登って劔岳に登頂、つづいて立山にも登った。翌七年一月には、唐松日電小屋から五竜岳へ登頂、唐松―不帰岳の針金のあるところを下って第一鞍部より引返す。(つづいて猿倉から山友達二人とともに白馬岳へ登頂)二月には槍肩の小屋から槍ヶ岳登頂後南岳まで往復、双六岳、抜戸岳および笠ヶ岳へ往復、つづいて白馬大雪渓を登り杓子―槍―旭岳―白馬岳等に登った。翌八年一月には御殿場から富士山へ登頂、つづいて黒沢口から御嶽山に登り王滝口へ下る。三月には槍沢を登り槍ヶ岳―南岳―北穂岳―唐沢岳―奥穂岳―前穂岳と縦走して岳川へと下った。つづいて乗鞍に登頂(四月一日には立山から別山まで尾根を歩き、翌日乗鞍の小屋から軍隊劔岳へ登頂した)かくて本年に入ったのだが残念にも一月にはあの大雪にあい、立山中腹ブナの小屋においてテントを置いたまま退去の憂目うきめをみた。(山友達とともに春になった四月の三、四の両日に前穂高の北尾根を登り、奥穂高へ辿る途中において凍傷にかかり、槍ヶ岳方面を抛棄して穂高小屋から下ったのである)。以上冬期でないものおよび単独行でないもの(カッコ内のもの)も列記したが、これによって見ればほぼ容易な山行から漸次困難な山行へ進んでいるといえよう。
 我々は何故に山へ登るのか。ただ、好きだから登るのであり、内心の制しきれぬ要求に駆られて登るのであるというだけでよいのであろうか。それなら酒呑みが悪いと知りつつ好きだから、辛抱ができぬからといって酒を呑むのと同じだといわれても仕方があるまい。だから我々は山へ登ることは良いと信じて登らなければならない。山へ登るものが時に山を酒呑みの酒や、喫煙者の煙草にたとえているのには実に片腹痛いのである。もしも登山が自然からいろいろの知識を得て、それによって自然の中から慰安が求めえられるものとするならば、単独行こそ最も多くの知識を得ることができ、最も強い慰安が求めえられるのではなかろうか。何故なら友とともに山を行く時はときおり山をみることを忘れるであろうが、独りで山や谷をさまようときは一木一石にも心を惹かれないものはないのである。もしも登山が自然との闘争であり、自然を征服することであり、それによって自然の中から慰安が求め得られるとするならば、いささかも他人の助力を受けない単独行こそ最も闘争的であり、征服後において最も強い慰安が求めえらるのではなかろうか。ロック・クライマーはただ人が見ているだけで独りで登るときよりはずっと気持が違うというではないか。
 去年の三月私は横尾谷にある松高の岩小屋をおとずれたことがある。ちょうどその年の一月屏風岩を登った中村氏らがいて非常に歓待してくれた。そのとき私は入口においてある大きな白樺の木へ腰をおろして焚火にあたっていた。ところが中村氏は私に向って「君の生命は旦夕にせまっている」というのである。それはどうしてだと聞いてみると、実は去年の今ごろ、今は亡き神戸の三谷氏が友達と二人で君と同じように飄然とここへやってきたが、そのとき三谷氏は現在君のいるところへ全く同じように腰をかけていたし、また同じく神戸の金光氏および有明の案内塚田君もやっぱり同じようにそこへ腰をかけていたのだ。だから君ももう長くはないというのである。さすがに冬期屏風岩を登る人だけあって実にはっきりとものをいうではないか。だがしかしそれほどしっかりした彼氏も単独行を知らないのである。そして彼氏は、俺は友達と二人で屏風岩を登った。ザイルは使わなかったけれど、二人のあいだには心と心の絆がいつも緊張していてなんらの不安もなかったのだ。俺は一人で屏風岩を登ろうとは思わないし、一人で山を歩こうとも思わないといった。彼氏ほどの技倆と熱情を持った山岳家でさえ単独行をしないというではないか。だから危険だとか、危険でないとか、技倆等をもって単独行を云々することはできない。単独行をしたい人こそ単独行をするべきであり、またそういう人こそ単独行をなしうる第一の資格があるのである。
 単独行者としても、ときには案内をつれたパーティと一緒に山小屋へ泊ることがある。彼は単独行者である以上初めから案内に好かれるはずがない。それに彼は山男の常として無口で人の機嫌などとることを知らない。ただ彼の臆病な心はひたすら案内人の気にさわることを恐れているのである。かかる場合、ちょっと天候が悪いくらいでも、案内人が今日はとても出かけられませんよといって動かずにおれば、いくら彼が天候に自信をもっていても案内人を裏切って出かけることはできないであろう。かくて二、三日も、一緒に小屋におれば「近江積雪期登山の隆盛となるに従い、なかにはこの時期の登山について経験を有せざるものが山麓の部落あるいは山小屋にいたり、優れたる案内人や好指導者を有する登山隊の足跡を追うて高峻岳に登攀せんとするものがあると伝えられる。もし真なりとせば、かくの如きことは絶対に避けなければならない。危険の責任を他に転嫁するものなりと評されても仕方がない」などといわれるのではなかろうか。また案内をつれないと山小屋に鍵が掛っていて入れない地方があるが、そんな所ではガイドレスはもちろん単独行者などは極度に嫌われているわけだから、もしも天候の少々悪い冬など山へ登ろうものなら「冬の山に単独で入るということは、天候の激変等の場合、自然、里の人々は特別に心配をすることになるであろうし、ときにはその人々は少なからぬ犠牲を払って登山者の足跡を追い辿らなければならないのである。かかる心配が幸いにして不必要に終ったとしても、かかる心配をかけたことに対しては登山者は責任を負わなければならない」などといって親切を売物に出し、酒代をゆすろうとするのではないか。
 我々はせまい道を通るとき、こっちが大手を振って進めば向うからくる人はそれをよけるが、こっちが小さくなって進めば向うは大手を振ってやってくることを知っている。
 また雪の一本道など歩いているとしばしばあることだが、向うからくる人よりこっちが多人数なら決して道をよけようとはしないだろう。外国にはパーティの一員がスリップした場合に、これを他の隊員が支持しえないような物凄い岩場から生れたアラインゲンガーがあるそうだが、かくの如き優秀なアラインゲンガーをつかまえてアラインゲーエンの危険をとく人もあるそうだ。だから単独行者よ、見解の相違せる人のいうことを気にかけるな。もしそれらが気にかかるなら単独行をやめよ。何故なら君はすでに単独行を横目で見るようになっているから。悪いと思いながら実行しているとすれば犯罪であり、良心の呵責を受けるだろうし、山も単独行も酒や煙草になっているから。良いと思ってやってこそ危険もなく、心配もなくますます進歩があるのだ。弱い者は虐待され、ほろぼされて行くであろう。強い者はますます強くなり、ますます栄えるであろう。
 単独行者よ強くなれ!
(一九三四・一二)
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穂高にて









 ここは北穂高と涸沢岳の鞍部に近い北穂高よりの尾根の上で、一間ほどの壁が飛騨側からの風を防いでいるが、信州側は涸沢谷へ向って相当急傾斜に落ちているので、露営地としてはあまりよくないが仕方ない。
 それは今朝槍の肩を出て日のあるうちに穂高の小屋まで行く予定であったが、早朝すでに天候悪化の兆が見えていたので出足が鈍ったのと、大キレットの下りを間違えて飛騨側の急な谷へ迷いこんだり、北穂の頂きに近い堅い雪と岩と斜面では安全第一とルックザックを下してこれとアンザイレンしたため、ルックザックが途中の岩に引っかかりなかなか上ってこなかったので、北穂の頂きに立ったときはすでに夕暮れがせまっていた。北穂の下りは先年二月に通ったことがあるので安心していたが、間もなく暗くなったので思うように行程がはかどらなかった。涸沢岳との鞍部に近くなった頃、一間ほどの壁を下り、すぐ飛騨側を巻くところがある。ここで岩角を掴んでトラバースしているとき、腰のバンドに取付けていた懐中電灯が岩にふれて取手の付いた蓋の方を残してカランカランと音を立てながら谷底へ落ちてしまった。仕方がないのでここまで引返してきたのである。
 幸い食料も燃料も、充分持っているし、防寒具も相当あるので、ここで露営することにした。で、石を掘出しワカンとザイルを敷物にして腰掛を作る。いつの間にか雪が降り出してきた。手早くコッヘルを出して雪と甘納豆をほうり込み火をつける。雪がそろそろ融け出すと氷小豆という奴になっているのでもうたべられる。殊に身体の疲れている折などは冷い物の方がのどを通りやすい。そしてそれがあつくなった頃には殆んどすくい上げられているし、アルコールも燃えつくしている、腹もできたのでまず一眠りと、合羽をぐるぐる身体に巻き付け風の入らないようにして横になった。
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 かつて一月のある日、奥穂高へ登ろうとして吹雪のため穂高の小屋より追い返されたことがある。そのとき横尾の谷へ下った頃には薄暗くなってきたので、ランタンに火をつけようとしたが、ローソクに雪がついたためマッチの火ではジーッといっているだけで火がつかず、あきらめて真暗な中を足探りで下って行くうち、川の中へ辷り込んで半身びしょ濡れになってしまった。で、このまま進むことはスキーを折ったりするおそれがあると思ったのでその岩陰で露営したが、ズボンがびしょ濡れになっているので腰を下すととても冷たく辛抱ができず、一晩中立っていたが、恐ろしく辛い露営の夜であった。それにその頃は眠ったら駄目だと思っていたので、大声で歌を唄いつづけたため朝方には全くふらふらになってしまった。また山陰の氷ノ山―扇ノ山を縦走中猛吹雪に遭い、歩きつづけること五十余時間で空腹と疲労のためとうとう倒れてしまったことがある。しかしそのときは吹雪もそれ以上はつづかず、倒れてから八時間ほどして気がついたのである。これらの経験から、初めの元気のあるあいだは身体の消耗を防ぐため歌を唄ったり歩き廻ったりしないで、できるだけ眠る方がよいと思った。もちろん眠る前には充分カロリーをとっておく必要がある。
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 一眠りして目のさめたときは吹雪はますます勢いを増してきて、着ている合羽がバタバタと音を立てていた。その後は涸沢岳の壁にあたる物凄い音を聞きながらうつらうつらとしている。何度目を開けてみても夜が明けない。あまり長いので、あるいは夜が明けているのだが雪目か何かにかかって目が見えなくなっているのではなかろうかなどと考えたりする。また古い記憶を辿ってみると、涸沢岳への登りはだいぶ悪場があったような気がする。こんなひどい吹雪の日にそこを通過するのは困難ではなかろうか、むしろ涸沢岳直下の雪の斜面を巻いて穂高の小屋へ行くコースの方が安全ではなかろうか、などと考えたりする。しかしまた、雪崩の最もよく出るのはこんな吹雪の日のようだし、ことに涸沢岳の直下あたりは急傾斜の岩場がたくさんあるので始終雪崩ているようにも思われる。では吹雪のやむまでここで待とうか、いや一日や二日でこの吹雪が止むとはきまっていない。三日も四日もこれがつづいたとすればこのままの状態でいられるかどうかうたがわしい。足でも凍傷にかかろうものならほんとに動けなくなるかも知れない。そうだ全く忘れていた――「なんのために山にきたのか」ということを。自分は「山と闘うためにきた」のではないか。なぜ岩を恐れ、氷を恐れ吹雪を恐れてこれらの姑息こそくな手段を考えるのか。吹雪の日の涸沢岳の尾根こそ久しく求めて止まなかったところではないか。さあ立ち上がろう、立ち上がろうと勇を鼓して吹雪をついた。



 前穂高北尾根第三峰のチムニーの中に掘った雪のトンネルで岳友吉田君と二人、場所柄実に寒い露営地で一夜を過した思い出である。
 この日は早朝朝焼けがしていて、間もなく天候が崩れることはわかっていたが、尾根へ出れば吹雪いたとてひとすじ路のうえ、雪崩の心配もないのだからと思い切って出発した。この年(昭和九年の春)は恐ろしく大雪が降った年で、四月の三日にもなっているのに真冬と同様の天候がつづき、涸沢谷の雪は昨日一日の快晴にもなんらの変化をみせないほどで、涸沢谷の下りは実に愉快であった。その代り、スキーをぬげばワカンをはいてなお腰までももぐり、五、六の鞍部への急な登りにはピッケルを横にして上の雪を潰し、これを脛で固め一歩一歩泳ぐようにして登らねばならなかったので二人とも全く大汗をかいてしまった。第六峰は雪ばかりの広い尾根で、ブラブラと登ることができたが、五峰からもう痩せていてところどころ岩も出ているので安全第一とアンザイレンしたため、岩登りの下手な僕が始終ブレーキになって、第三峰のチムニーの下へきたときには予想外にときを経ていた。ここで取付きやすい左のチムニーに入ったが、これには全部雪がつまっていて上の方に雪庇さえ懸っていた。その雪庇を落すために二、三度努力してみたけれど、ピッケルが思うようにとどかぬので、諦めてその下に雪のトンネルを斜めに掘り始めた。このトンネル作業はピッケル以外に適当な道具が無かったため実に労が多く、三時間ほどもかかってやっと抜け出すことができた。しかしもうそのときは夕闇がせまり、その上雪まで降り出してきた。そこからしばらく右へ雪の斜面を登ると本尾根へ出ることができた。本尾根は大きな岩のリッジになっているので、少しく右へ下り気味に涸沢側を巻き、そこより真上に岩と雪の斜面を登ろうとしたが、雪がひどく降り出して懐中電灯の光ではコースがよくわからず、とうとう諦めてこのチムニーの雪の孔へ引返したのである。
 チムニーの中に掘ったトンネルは傾斜が急なので、別に水平の孔をチムニーの出口のところへ掘り、やっと二人横になれるほどの大きさに拡げ二組のワカンを敷きザイルを拡げて床を作った。早速コッヘルを使用して食事をとる。吉田君の持ってきた豆の煮たのをコッヘルであたためて食べたがこれがとてもうまかった。いろんな物をコッヘルであたためては鱈腹たらふくたべたので、持ってきたものを全部着た上、足は靴をはいたままルックザックの中に入れ、頭を奥にして二人は互いに押し合いながら横になった。
 夜の更けるに従って吹雪はますます勢いをまし、北尾根に当る風の音が物凄く唸り出してきた。そしてトンネルの中もついに吹雪が荒れ狂うようになった。また上の庇からは雪が風と一緒に始終ザーザーと流れ込んできて瞬く間に腰の方まで雪の中へ埋ってしまった。それでも吉田君は気持がよさそうにぐうぐうといびきを立てながら眠っている。吉田君は終日僕を引張り上げるのに苦心をしたためひどく疲れているのに違いない。僕の方は靴のできが悪く、ちょっと寒い日には靴下が一枚は必ず靴へ凍りつくほどだったので、このときも足がつめたくて殆んど眠れずうつらうつらとしていたので吉田君の深い眠りが気にかかり、ときどき吉田君、吉田君と呼んでみた。その度にうーんと返事がある。寒いことはないかと問えば、やっぱりうーんと言っている。全く眠いに違いない。でもあれほどたくさんあたたかい物を食べた後だからどんなに深く眠ったって大丈夫だ。それに寒くないというのだから心配はない。こんなときに眠るまいと努力するのは非常に神経を消耗さすのでよくないと知っていたが、友の身体の状態がわからないので気掛りだったのだが、異状も認めぬので僕も安心して眠ることにした。
 それから数時間は過ぎたと思われるころ、とうとう二人とも寒さのために目が醒めてしまった。まだまだ夜は明けそうにない。コッヘルで熱い奴をこさえてカロリーをとり、もう一眠りしようと思って雪に埋れた道具を掘り始めた。そしてやっとコッヘルは掘り出すことができたけれど、どうしたものかアルコールを入れた缶が見つからない、こうした物は一揃いにし袋に入れておけばよかったと思ったが仕方がない。八方手をわけて探したが無駄であった。このときはさすがにがっかりした。眠れないままこれから先のことについて吉田君と相談する。僕は「尾根にはまだ悪いところがありそうだから吹雪の止むまでここで待つか三、四のコルまで引返そうではないか」というと、吉田君は「もう一晩もこんなところにはいたくない、どんなことがあっても今日中に小屋へ帰ろう、悪いところはみんな自分が頑張るから」と。
 そうだ、この意気だ、この意気があればこそ山登りに成功するのだ。どんな悲境に立とうとも決してこの意気を失ってはならない。世には往々ほんの僅かの苦しみにもたえず、周章狼狽、意気沮喪して敗北しながら、意思の薄弱なのを棚に上げ、山の驚異や退却の困難をとき、適当な時期に引揚げたなどと自讃し、登山に成功したのよりも偉大な如くいう人がある。
 しかし山を征服しようとする我々は、こんな敗軍の将の言葉などにはいささかも耳をかさず、登頂しないうちは倒れてもなおやまないのである。
(一九三五・七)
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厳冬の立山/針ノ木越え







昭和九年十二月三十一日 曇後雪 八・〇〇千垣 一〇・〇〇―一一・〇〇藤橋ホテル 一・〇〇材木坂上 二・〇〇ブナ坂小屋
 今日は早朝からすでに上空が曇っている。これは天候悪化の確実な前兆である。風はなく暖かで山ははっきり見える。
 富山駅から堀川新へ行く郊外電車の中や南富山から千垣に行く県営電車の中で見る立山連峰はいつもながら雄大な眺めだ。
 いつも朝食は富山駅前で買った※()の入った餅です。この餅は旧正月頃に買うといつもの半値で実に安い。餅は食いやすくてよいが、重いので多量には持って行けない。富山で買ったのはまだやわらかいので、電車の中で少しと、芦峅から藤橋までのあいだでちょっと休んだとき等に中食として食べる。
 以前は藤橋ホテル等によらず、昼食にもこの餅をたべていたが、近頃はホテルに休んで暖い昼食をし、魔法瓶に熱いお茶を入れてもらったりしてできるだけ楽をする。
 正月頃でも去年のように雪の多い年や、二、三月頃には藤橋より八町ほど手前で雪崩のよく出るところがある。そこは高度も低く南斜面の草山なので日が当るとすぐ雪崩れる。雪崩のひどい年は河原を伝うように道ができていて橋も架っているほどである。また材木坂にも雪崩の出るところが二、三カ所ある。そのうち一番大きな奴が出るのは、地図の材木坂の材の字から南へ出ている浅い谷からである。この雪崩の出るところを越して次の尾根を二、三回キック・ターンをして登り、右へ巻けば清水の出ている一番大きな谷へ出る。この谷はブナ坂の下から出ている浅い谷のつづきである。清水は真冬でも埋ることがなく、いつも登山者に元気をつけてくれる。ここから上は広い谷なので大きくジッグザッグを刻みながら登れる。傾斜は随分急なので、日当りのよい三月頃はスキーのために足元から雪崩れることがあり、下りには特にいやなところである。
 材木坂の下りにはこの清水のところをよく注意していて、これより下へくだり過ぎないようにしながら右へ谷をトラバースしないと悪場がある。しかし例年正月頃は雪が少なく道が全く出ていて、それらの心配がなくスキーを担いで上下するときの方が多い。
 スキーはアルペン担ぎにした方が両手が自由なので都合がよい。これは両スキーの先端を重ねて前皮か適当な紐で締め、両締具をルックザックの負皮の上の鐶に通して、ルックザックとともに担ぐのである。もしスキーがぐらつくようならテールの方も紐で腰に縛りつけるのである。
 いつもブナ坂を登り切ると、悪場から開放された安心からレモン・ティ等を沸かしてしばらく休む。今年は新道ができていて美女平を通らず尾根の右端を巻いて小谷にいで、それを渡ったりなどしてしばらくは道もわかったが、すぐ道を失いあとは藪をくぐりながらほぼ旧道に沿って登って行った。ここは杉の植林がしてあり、迷えば左の方へ巻く方が楽である。
 ここまでくると天候は全く崩れて予想通り雪が降り出した。霧のためにブナ林もぼんやり霞んで遠くは見えない。ブナ坂は約一一四〇メートルから一一八五メートルくらいの広い大きな坂でよくわかる。この坂は道より少し右寄りに登った方が楽だ。これを登り切ればすぐ目の前にブナの小屋が大きく現われる。時間はまだ早かったが、雪が降り出したのでここへ泊ることにして内へ入る。小屋は二階建ての頑丈なもので、どんな大雪のときにも埋って入れぬということはないであろう。寝具、食糧、燃料等も備えてあり、五月にはたいてい番人がいるから安心だ。
 この日はお客が僕一人なので儲からないと思って番人は山を下ってしまった。天候はますます悪化して夕方から風が吹き出し、夜中には雪が雨に変って物凄い暴風雨になった。初め二階に寝ていたが、ひどくゆれて不安なので下の炊事場へ退却した。しかし炊事場も大変いたんでいてあちこち雨が洩るので一晩小さくなって寝ていた。

昭和十年一月一日 雪 ブナ小屋滞在
 朝になって風は落ち、雨は雪に変った。しかし、まだ急にはよくなりそうもないので滞在ときめて、食糧節約のため小屋番の残して行ったぼろぼろの飯をおかゆにして食べる。昼頃ちょっとスキーの練習にブナ林を下ってみる。雪量が少ないため藪が多く、よく転ぶのと、一人では淋しいのですぐ止めてしまう。
 この坂は二、三月頃の雪の多いときは全く気持のよい斜面で、二、三人もいてスキーの練習をしていれば実に愉快なところである。それに山の方が随分ひどく荒れていてもここは高度が低いのと、ブナの林の中なのでスキーの練習ができないということはない。僕は去年の正月、ここで一週間降り込められて弘法までさえ行けなかったが、ちょうど一緒になった名古屋三菱のパーティとともにブナ坂で転び廻ったり、小屋番や案内人と兎を追っかけたりして遊び、夜はストーブを囲んで山の話にメートルを上げる等、実に愉快な合宿気分を味うことができた。
 案内はいろいろと面白い話をしてくれた。兎を手掴みにする話や、つかまえるとニャンニャンと泣くとか、あれでもなかなかかしこく自分の行方をくらますため適当な隠れ場所があったらそれを横目で見ながら、なおしばらくはピョンピョンと飛んで行って後、附近に恐いギャングはいないかと周囲をきょときょと見廻し、やおらその隠れ場所のところまで前の足跡を乱さないように伝い、そこで大きくジャンプしてその孔に飛び込み、決してそこには足跡をつけない等と言った。こうしておくと兎の大敵てん等に足跡を伝われても安全だということだ。夕方から気温が下り雲が動き出して天候快復の兆が見えてきた。明日の準備をして早くから床へもぐり込む。

一月二日 小雪後晴 九・〇〇ブナ小屋 一・三〇弘法小屋 六・〇〇天狗平の小屋
 今朝は暗いうちから出発する予定であったが、まだ雪が降っているので出足が鈍った。やっと九時頃になってときどき雲が切れて青空が見え出し、はっきり天候恢復の兆が見えたので急ぎ出発する。小屋を出てだいたい左寄りに広いブナ林の中を登って行く。
 雪の少ない年は藪がひどく夏道通りしか登れないが、二、三月頃ならたいていどこでも通れる。称名川は足下はるかに音を立てて物凄く落ち込んでいるので、あまり端を通ることは危険である。この高原にたまった水は主に右手常願寺川へ流れているので、ちょうどこの端が広い尾根の分水嶺になっていて、ここを通ることはうるさい谷等を越したりすることもなく楽である。ブナの小屋から一時間もくるとシジミ坂というちょっとした登りがある。ちょうど地図の一二七〇メートル附近である。
 なおも称名川を見下しながら同じようなブナ林の中を登って行く。シジミ坂よりまた一時間ほどもくると尾根も多少狭くなり、かつ、右にこの高原としては割合大きな谷が現われてくる。すなわちこの谷が桑谷で地図の一四一四・八メートルの三角点の手前にある深さ四〇メートルばかりの谷である。この谷は上で二つに分れ、左の方は短く、かつ、谷は称名川の方へも落ちているので、ここで迷ったら右へ右へと取って、決してこの左の谷へ入ってはならない。
 またここは尾根が細くなる手前でトラバースしないと藪がひどく、尾根も大変複雑になっていて厄介である。桑谷へ下りたら谷をあまり登らず、なるたけ早く右手の手頃な斜面か溝谷を登る方がよい。
 一四一四・八メートル附近は伐採されたものか木もまばらな真白い平原である。この平原をしばらく進んで行くとまたブナ林が現われ、その中を一時間も登ると称名ノ滝の音がドウドウと足元から響いてくる。尾根もやや狭くなり、針葉樹の目立つところを過ぎるとこんどこそ実に広々とした真白な斜面が現われる。これが一六一二メートルの三角点のすぐ下である。
 これを登り切ればすぐ目の前に弘法小屋が見える。しかし今日は霧が深く遠くは見えない。晴れた日ならとてもよい眺めで、南の方には弥陀ヶ原の広い高原を隔て大きく胸を張った薬師岳が実に雄大に見えるし、東の方には鳶山、鷲岳、鬼―竜王、天狗、別山等が見え、大日―早乙女等とともにアーベント・グリューエンに燃えている雄大な景色は立山に登った者に忘れ得ない印象を与える。
 弘法の小屋にはいつでも水が出ているので、中へ入ってコッヘルで甘納豆をたき昼食をする。小屋には寝具、燃料、食糧等備っているので、ここを根拠地として立山へ登ったり、附近の高原をスキーでさまよい歩くのは実に楽しくよいところである。そのうえ随分荒れている日でもここからなら安全に下山することができるので、追分や天狗平の小屋より安心である。
 冬期は多く西風が吹くのでそれに向って山を下ってくるのは大変で、ちょっと荒れても室堂や天狗平から出ることができない。弘法の小屋を出て左に浅い谷を見下しながら一五分も進むと、丈の低い針葉樹がまばらに生えた三メートルほどの坂がある。ここを過ぎてしばらく行くと右側に浅い谷が現われてくる。こんどはこの右の谷に沿って進めば一時間半ほどで追分の小屋へ着く。雪は割合しまっていてラッセルは弘法までにくらべるとずうっと楽であった。
 弘法までは樹が繁っているので二月頃には随分深いことがある。追分の小屋には富山電気局の一行が泊っていた。一行も立山へ登ろうと思ってきたのだが、昨日、今日と二日も天気が悪いので諦めて、もう今日は山を下ろうと思いそこまで出たのだが、霧のため方向もわからず今引返したところだと言っていた。しかし天気は全く良い方に変っていて、霧もだいぶ薄くなってきたし、ところどころ青空さえ見える。で、僕は「天気はもうじき良くなりますよ、なんなら僕と一緒に天狗平の小屋へ行きませんか」と誘ってみた。けれど一行はコンディションの悪い人もあるので、天気がよくなればすぐ下山しようと思っていると言った。で僕は「山を下りられるなら今僕の登ってきたシュプールが確実に残っていますから、どんなに霧が深くとも迷うことはありませんよ」と言って元気をつけてあげた。
 追分からは夏道を離れて真東にコースをとり、湯川の谷の縁へ登って行く。この附近はこれまでと違って急に針葉樹が繁り、雪が深く、傾斜も急でラッセルがつらい。尾根の手前一〇〇メートルばかりで、左へ方向を変え尾根を右山に巻いて斜めに高く登って行くと一つの段へ登りつくことができる。追分から一時間である。この頃より全く霧が晴れて広い広い弥陀ヶ原が脚下に展開されてきた。ここは地図の弥陀ヶ原の弥の字から東へ登った尾根の二一〇〇メートルくらいのところである。
 ここまでくると木もまばらになり、雪も締ってラッセルが楽になってきた。遥か後の方で人声がするので、振り返ってみると一行が後を追ってくるのであった。尾根の下七、八メートルくらいのところを巻きながら広い谷を一つ越すと、天狗の頂上からはるか下の平までつづいている雄大な斜面に出てきた。ここで一行は追いついてきて「良い天気になったので立山へ登りたくなってきた」と言ってラッセルを代ってくれた。この附近は風が良く当るので板状雪になっているところもある。なおも右山で中腹を巻きながら進むと、弘法より四時間ほどで尾根はぐっと右へ曲ってしまい、前面に天狗平が現われてくる、ちょうど立山の連峰が夕日に焼けてとても綺麗である。天狗平の小屋は地図の鏡石から東南東八〇〇メートルほどのところと思われる。
 天狗平の小屋には天狗岳に面した南窓から入る。寝室は二階で、寝床が一部分押入のように二段になっているところもある。小屋番がいてストーブは赤々と燃えているし、なんにもしないでいて暖い御飯がたべられるので、こんな高い山の上だと思われない。ちょうど山の先輩杉山さんが泊っておられて殊に賑かであった。杉山さんの話では今日は下の方こそ霧がかかっていたが、上の方は良いお天気で立山頂上の大観はすばらしかったとのことだ。小屋番はおとなしい男であったが、若い案内二人と夜遅くまで話をしていて耳障りであった。(しかし可哀想にもこの冬東京からきたパーティのお供をして立山へ登り、途中ひどい吹雪に会い、皆と一緒に雪の孔の中に避難していたが、二、三日目にとうとうこの小屋番だけが凍死したそうである。)

一月三日 快晴 七・〇〇天狗平の小屋 一〇・〇〇立山最高点 三・〇〇ザラ峠 五・三〇刈安峠 九・〇〇平の小屋
 今日は実にすばらしい良いお天気である。冨山組四人と小屋番の案内および僕の六人で出発した。昨日登った杉山さんと案内のシュプールがあるのでそれを伝う。広い雪原を南よりに東へ向ってしばらく登ると浅い谷を渡る。二六二〇・八メートルの裾を巻き終るとまた広い谷が現われてくる。この谷にはよく雪庇ができているので、なるたけ右寄りに巻いて谷を渡る方が安全である。
 これを越せば室堂の平はすぐである。天狗平から一時間ほどで室堂に着く。室堂からは浄土山の北斜面を巻いて行く。急斜面を巻き切ると一ノ越はすぐ目の上に現われてくる。この附近は随分風が強いとみえて雪は固くなっているし、浄土側には一部雪庇ができてその下には大きなスカブラができている。一ノ越のすぐ下の固い雪の斜面をキック・ターンしながら登れば室堂から一時間ほどで一ノ越の上にのぼれる。たいてい風は西から吹き上げてくるので風陰を求めて黒部側へちょっと下り、そこでスキーをアイゼンにかえる。
 乳菓等を少したべて元気をつけてから登る。小屋番の案内はアイゼンを持ってこなかったので、頂上へは登れない。冨山のパーティも夏山用の不完全なアイゼンを履いているので早くは登れない。一ノ越から頂上までのあいだの尾根は最初ちょっと雪のやわらかいところと、岩の出たところがあるがだいたい固い雪の道で、ところどころ風で夏道の出ているところもあり、夏と殆んど変らない時間で登れる。
 しかし風はなかなか強く寒いので、防風用の服を着、顔は毛皮で頬冠りをした上、スキー帽も冠って登る。頂上の社務所のところはまだ雪がやわらかくところどころ落ち込む。僕は雄山神社のところへ登った後、大汝の方へ二十分ほど縦走して行って立山の最高点へ往復する。この最高点から雄山神社を越して薬師岳が見えるし、大汝の上には黒部谷下流の白馬側の山が見える。冨山のパーティのうち頂上へは二人しか登らなかった。他の二人は追分の小屋にいるときからすでに消耗していた人である。頂上へ登ったリーダーらしい方の人は、これで春夏秋冬と立山の頂上へ登ることができて本望であると言って喜んでいた。一ノ越で一行から蜜柑みかんを御馳走になる。
 一行がスキーを楽しみながら一ノ越を下って行くのを見送った後、コッヘルで甘納豆をたいて昼食をすまし、十一時にここを出発する。スキーはアルペン担ぎにし、両テールは紐で腰に縛り付けてぐらつかぬようにする。尾根の雪は固く一時間ほどで竜王岳のところへくることができた。ここで荷物を置いて竜王岳の頂上へ登ってみる。頂上は別に変ったこともないが、高いところを素通りすると後で心残りになるからである。
 竜王の下りは随分急であった。しかし雪がやわらかいので危険ではない。だいたいにこれから鬼ヶ岳へとつづいた尾根は右側の湯川へ面した方がひどく落ち込んでいて噴火口壁であることをはっきり現わしている。尾根の雪は意外にやわらかく下りは安全だが、ちょっとでも登りがあると全く骨の折れるところであった。しかしザラ峠への下りは雪もよく締っていて、危険もない斜面なので走って下ることができた。一ノ越からこの峠まで三時間半ほどである。
 またコッヘルを使って軽い中食をし、元気をつけて後やはりスキーは担いだまま五色ヶ原へと登って行った。そして五色ヶ原の小屋がすぐ目の前に見えるところで初めてスキーを履く。五色ヶ原の小屋は大半露出していて楽には入れそうである。もし冬期も寝具が置いてあるなら二、三日くらい泊ってスキーの練習をしたいところである。小屋から斜め左にしばらく滑ってゆるい谷を渡り、鳶山二六一四メートルから一九五一・五メートルへ下った東尾根へ取付き、この尾根をドンドン下る。
 初めのうちは木もまばらな広い尾根でとても愉快な滑降を楽しめたが、漸次尾根は細くなり、左側は急に落ちているので右側ばかり巻かねばならず、そのうえ今日は冬には稀な良いお天気だったため、雪が溶けて夕方にはブレーカブル・クラストに変化してきたうえ、大晦日おおみそかの雨はこの附近もひどかったらしく、木の根元に大孔を穿けているので思うように飛ばせない。一九五一・五メートルの手前の刈安峠には、四日ほど前に通ったパーティ(登山者一、案内二)のシュプールがかすかに残っている。一行は一ノ越から御山おやま谷を途中まで下り、二〇五〇メートルくらいの尾根を越して中の谷へおり、のちここへ登ってきたものであろうと思う。その後はこのシュプールに沿って下れるが、雪はますますひどいクラストに変り、かつ夕闇はせまってきて峠を半分も下らないうちに足元も見えなくなってきた。
 なおも懐中電灯の光をたよって下って行くうち、とうとう左へ巻くところでシュプールを見失ってしまった。後戻りするのは厄介と思ってそのまま下ったら、川の岸はひどい藪の上、急斜面で河原へ下るのは大変困った。朝の出発をもう一時間早くすれば、ここで迷うことはなかったであろう。河原は随分広く川は一部分流れているだけであった。
 徒歩は一度しただけで一カ所は丸木橋があった。やっと左岸の林の中でシュプールを見つけ、難なくたいらの日電の小屋へ着くことができた。ここには三人合宿しておられて、いろいろと御馳走をして下さった。温泉に入ったり、ラジオを聞いていたりすると全く黒部谷の中とは思われないほどである。

一月四日 雪 平の日電小屋 滞在
 昨日の晩は星がキラキラとひどく瞬いていたが、日電の人が気圧計を見て明日は雪ですよと言った通り、朝早くから雪がドンドン降っている。滞在ときめていろいろ山の様子を聞く。この平の日電の小屋は社宅で登山者を泊めてはいけないのだが、僕は一人でもあり、随分遅くやってきたので、気の毒だと思って泊めてくれたので、前のパーティは平の小屋で泊っていたそうだ。そして二、三日前、烏帽子へ登ると言って谷を上って行ったという。

一月五日 小雪後晴 九・〇〇 平の日電小屋 五・三〇針ノ木峠の小屋
 今日も早朝はまだ雪が降っているので出足がにぶったが、八時頃から雲が動き出して青空がときどき見え出したので、いろいろとお世話になった日電の人々と別れて平を出発する。黒部のかごの渡しにはちょっと参った。スキーとルックザックを縛りつけると乗るのが大変である。この籠が岸を離れるときの気持は、アップザイレンの出しなと同様気味の悪いものであった。またかじかんだ手で綱を引張ってもなかなか引掛って動かなくなったり、だんだん登りになってくるに従い動きが悪く実につらかった。
 やっと河原へ降りてしばらくスキーで行くと右へ針ノ木川を渡らなければならない。水量は僅かで危険ではないが、靴に水が入るので濡れてもよい一時凌ぎの靴下を履いて行く方が良い。また左側へ渡り等して上っていくが、随分以前に一度通っただけなので道をよく覚えていない。そのうえ去年の風水害で橋は全部流されてしまっているので渡るところがよくわからない。ところどころ大晦日の雨でと思われる雪崩が左岸には出ている。
 今年は積雪量が少ないためかあまり大きな雪崩は出ていないようだ。大半道は右岸を通っている。針ノ木の西尾根には岩場があるから雪のよく降る日は雪崩も多く出るだろう。
 一八九二メートルの出合からちょっと上は谷が細く、両側から雪崩の出そうなところである。ここを過ぎると丈の低い山はんの木のはえた広い谷で、全く開放されたような気がする。しかし雪のよく降る日ならここから上が最も危険なところであろう。蓮華岳側はあまり問題にならいが、針ノ木側は岩場もあり、そのうえ風陰なのでよく出るに違いない。山はんの木が少なくなるとだんだん傾斜が急になり、谷もいくつかの小谷に分れる。霧が晴れてきて、針ノ木峠の小屋が見え出したので迷うこともなく、小屋の右側の小谷を急なキック・ターンを繰返しながら登ったが、意外に時間がかかった。
 針ノ木峠の小屋には黒部側に面した南窓から入る。蒲団ふとんはりに掛けてあり、その上にゴザを冠せてあった。食糧や燃料は無いようである。雪は南側の窓のある方には随分入っていた。

一月六日 快晴 針ノ木峠の小屋よりスバリ岳往復三時間半 一一・〇〇小屋を出発 五・〇〇大町
 今朝はすばらしい良いお天気なので針ノ木岳とスバリ岳に向って小屋を出る。随分風が強く、寒いのと急な登りなのでちょっと参った。針ノ木の頂上からスバリへ下る尾根は急に落ちているが、風が良く当るため夏道が出ているので簡単に下れる。スバリの最高点は一番北の端なので、そこまで行って一つのケルンの中に名刺を挟んでおいて引返す。針ノ木峠の下りは張りシールのままなので直滑降をしたが、雪がやわらかく雪崩の跡もないので、あまりスピードは出なかった。
 二一五〇メートルくらいへ来ると左の方から出た古い雪崩の跡があり、二〇〇〇―一九〇〇メートル附近は全く雪崩で荒されていた。大沢の小屋によって夏道をしばらく伝ってみたが、藪が多いので谷へ出てそれを下った。扇沢の手前でまた夏道に戻り、シールをめくって漕いだが、天気が良いので滑らず、かみ田圃たんぼの早稲田のヒュッテで合宿をしていた山友達の乗った汽車に間に合わなくて残念であった。
(一九三五・一一)
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冬山のことなど









 天候は初冬の頃は一日のうちでも晴れたり曇ったりというようによく変化をするが、そのかわり大した荒れはない。すなわち晴天と荒天が曇天を中心として振りわけに小さい波形で変化をして行くのである。真冬になるに従ってこの変化の中で曇天から下の荒天の部分の波がだんだん大きくかつ長くなり、たいてい晴天一日、曇天一日、荒天二日という調子を繰返すようになる。そして春が近づくとまた初冬のように振りわけの波形に変るが、今度は大変ピッチの長い波になるようである。すなわち二日も三日も晴天がつづいたり、また荒天がつづいたりするのである。しかしこれらの天候中晴天の日と曇天の日はまず安全な登山日和だといえる。
 晴天になる前兆――普通降雪後は風が出て、一ノ俣の小屋だとか、弘法、猿倉、大沢小屋……等のように山の中腹以下から見ていると、ときどきこの雪雲が切れてその隙間に青空が見え出す、もちろん槍肩の小屋だとか、室堂、白馬頂上小屋、針ノ木峠小屋……等のように山頂附近からならこの雪雲は霧であって、この霧の切れ目に青空が見え出すわけである。そしてまたこれが暗いときならこの雲や霧の切れるごとにチラリチラリと星が見えるのである。もうこうなれば天候は全く快復しているのである。ただし雲が切れて行っても青空が見えぬとき、すなわち上空がまだ曇っているような場合はもう一度荒れると確信してよい。山頂附近には両方とも雪を降らすが、山麓では第一回の荒れが雨で、第二回目の荒れには雪に変るのであって、こういうように気温が下って行って初めて晴れ上るのである。
 降雪が夜中に止むと朝方には山の中腹に霧が立ち込めていることが多い。しかしこの霧は一部分に薄くかかっているだけで、夜が明け出すと非常に明るく感ずるからよくわかる。こんなときはたいてい丸一日晴天だから夜が明けてから様子をよく見定めて後出発しても遅くはない、で気をつけてこの機会を取り逃がさぬようにしなければならぬ。降雪が午後からやんで夜通し星が出ていれば、その間晴天が逃げて行くわけだから、翌日はできるだけ早く出発して午後には安全地帯に到着しているようにしないと荒天に逢うおそれがある。
 荒天になる前兆――晴天であった日の夕方にわかに生暖い風が吹き始めたかと思うと青空に刷毛で掃いたような雲ができる。また谷間に雲がボーッと浮いて、それが見る間に拡がって上昇を始め、たちまち山も谷も辺り一面を包んでしまうこともある。だが、普通は南々西の方に雲ができて、それがだんだん南風に運ばれてきては知らぬ間に消えているうちしばらくすると上空が白く曇ってくる。こうなれば全く天候は崩れてきた訳である。朝焼けのするのは上空が曇っている証拠であるから、朝焼けも荒天の前兆である。そしてこの上空にできた雲はすぐ下ってきて雪になる。
 以上の二つの場合を連絡してみると、雪の降り方がだんだん減って、雲が薄くなり始め――全く雲や霧が消えて晴天になり――中空にポーッと綿のような雲ができてそろそろ天候が崩れ始め――上空が白く曇ってくると、もう全く天候は崩れてすぐ雲は下って雪を降らすということになる。だから最初の雲や霧が薄くなり出して隙間に青空の見え出したときに登山を開始するのが最も安全な訳である。



 降雪――普通降り始めは湿雪でだんだん乾燥雪に変って降雪が止む。雪質が乾燥しているほど雪崩れやすく、また風等の外力の影響を感じやすい。しかも雪崩の速度も早く、傾斜のないところまで飛んで行って被害を及ぼすものである。だから降り始めよりも、降雪の止む頃の方が危険である。冬の降雪はたいてい一日くらいで止むが、稀には三日もつづくことがある。この場合こそ最も大きな雪崩の出るときである。故に日数の都合で降雪中の登降を試みるなら、雪の降り始めに行うべきで、決して降雪の止む頃に敢行してはならない。
 降雨――雨量が少量の場合は湿雪の降ったのと同様、概して雪崩を誘起しないが、多量のときは積っている雪の中まで浸潤して、その雪を湿潤雪とし最後には粒子のあいだを流れて滑剤となり、恐るべき雪崩発生の原因となる。冬期に降雨のあることは稀であるが、それでも一月に一、二度はあるらしい。雪崩の起るのは多く急傾斜のところで被害も緩傾斜のところへは及ばないようである。そして積雪量の少ないところは底雪崩となりやすいから地肌にも影響される。
 降雨直後の晴天の日は、冬から急に春に変ったと思われるほど暖い日でない限り、すなわち普通の冬期の晴天なら雪崩は他のいかなる場合よりも少ない。相当の粉雪量が積った上に風、日光等で丈夫なクラストを作っている場合は、それに雨が入り込むと中の粉雪は湿雪に変って容積が少なくなりクラストの下に中空を形成するから、もし表面のクラストが溶けて破れるほど気温が上昇すれば、雪崩発生の原因となる訳である。しかしこれほど気温の上昇する日はそれが降雨直後でなかったらなお一層激しい雪崩日であろう。とはいえ降雨直後は往々かように暖いと思われるほどの晴天の日があるものだ。
 曇り日や霧の日――こんな日には風でもひどくない限り余り雪崩は起らない。これが降雪直後であっても気温等の変化が急には起らないので、雪は徐々に旧雪に変る。多くは晴天後のことなので全く雪崩から解放されているといってよい。
 以上のような日はあまり登山をしたくない。それは危険というよりも晴天の日に比較して不愉快だからである。そして特に降雪の長くつづいているときと、降雨の日は小屋にいるのが退屈になったからといってスキーの練習等に出ない方がよい。
 快晴の日――冬期でも降雪直後の快晴の日は気温の上昇によつて雪崩れるのであるが、それにしてもそれほど気温の影響を受けるのは日射面でかつ高度の低いところのみである。この場合の雪崩は湿雪雪崩であるから、急斜面にしか起らないうえ、三〇度以下の斜面には流動してこない。そのうえ音が大きく、流動速度が遅いし、春の雪崩とは比較にならないほど小さなものである。だいたいにおいて春期の雪崩と同じような条件で起るが、最初の雪質が粉雪とザラメ雪というようにかなり差があるし、気温は春期とは比較にならないほど低いのでまず問題にならない。この気温や日射によって出る雪崩より降雪直後、まだ霧のかかっているときに風等の外力によって発生する雪崩の方が危険であるから、青空が見え出したからといって登山をむやみに開始してはならない。すなわち降雪が朝方か夜中に止んだ場合は、翌日太陽が出るとぐんぐん気温が上るから、明るくなってから出発すれば危険な粉雪雪崩に逢うことがないし、夕方雪が止んだ場合はすぐ出かけるのは危険だから相当時間をおいて、朝方出発するように気をつけなければならない。
 以上天候と雪崩を総合してみると、晴天の終りから曇天にかけて登山をすれば一番安全であるが、曇天のあいだの長さが一定していないので、やはり晴天の初めが朝であるならすぐ出発し、夕方なら翌朝早めに出発する。また雪崩の方は南向斜面を注意すればよいであろう。



 上下つづいた防水布の服――冬期は大変風が強いので風通しのよい物はなにほど着ても駄目だ、やはり風を防ぐ目の込んだ防水布等で保護しなければならない。上下つづいていれば腰のところから雪が入らないので、少々転んでも心配がない。軽快にするため薄い上等の物がよい。
 毛皮の目出帽めでぼう――吹雪のときにこれをスッポリかぶると目を凍傷することがなくたいへん暖い。目のところはセルロイドを縫い付ける。これが曇るので少々困るが別によい方法がない。
(一九三五・一二・五)






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