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88円ライターじゃじゃもる




兵庫高校新生山岳部の歩み

 私が兵庫高校を去り、山岳部の顧問を離れてからもう5年以上が経過した。顧問に就任するまでの経緯を少し書くと、兵庫高校転勤と同時に、私は山岳部顧問を希望した。ところが、私の代わりに顧問に就任したのは、新任で山に登った経験もないN先生だった。管理職は何故山岳部を希望していなかった彼を顧問にし、希望した私を陸上部に回したのか、そのあたりは今でも納得がいかない。この年度末、私は今度こそと山岳部を希望したが、管理職から突きつけられた条件は、陸上部との兼任顧問だった。全く私の意欲を逆手に取る卑怯なやり方だったが、私は了解した。陸上部との兼任は2年間続き、もうそろそろ陸上部は辞めさせてくれと言うと、今度は卓球部と兼任させられた。運動部を全く担当しようともしない一部教師のわがままを許す一方で、私のようなお人好しに過重な部活動を押し付ける。教師を虫けらのように扱う管理職には全く腹が立った。やっとで人間味のある管理職のはからいで山岳部専任になれるのは次の年度になる。
 私がやっともてた山岳部は、斜陽の時期だった。部員数も多かった42回生が引退し、43回生は3名、44回生も3名のみ。43回生の3名は比較的まともであったが、44回生の3名は質的によくなかった。最初の夏合宿でバテた44回生が1名やめてしまい、43回生の引退後、部員は2名しか残らなかった。その2名も甚だやる気が・・・やる気どころか、当たり前の社会常識も持ち合わせないひどい連中だったのだ。その部の崩壊から話は始まる。

前編

  平成2年6月のある日、私は旧校舎生物室で、鈴蘭台高校の山岳部員達と歓談しながら、時計を気にしていた。この年、わが兵庫高校の部員は2年生男子2名のみ、顧問の私も経験が浅いこともあって、夏合宿は鈴高と合同でやらせてもらうことになり、わざわざ鈴高の部員達はその打ち合わせに本校まで来てくれたのだった。なのに、わが校の部員は待てど暮らせど予定の時間に姿を見せない。おかしい、時間を勘違いでもしたのか?校内をさがしまわり、放送もかけたが、見つからない。
 やむを得ず、鈴高の生徒と顧問の先生には平謝りに謝って、合同合宿の話はなかったことにしてもらい、帰っていただいた。翌日、部長のTを呼んで問いつめると、「体調が悪かったので帰りました。」などと言う。約束をすっぽかしたことがモラルに反する行為であるとは少しも思っていないらしい。もし、合宿に消極的なのであれば、鈴高に来てもらう前に一言あってしかるべきなのだが、そういう社会常識が通じないことに、私は怒りを通り越して唖然とするほかなかった。もう一人のMなどは、呼び出しにすら応じない。
 かくして、44回生のTとMの名を、私は頭の中の部員名簿から完全に抹消した。かくして平成2年夏、兵庫高校山岳部は部員0の状態に陥ったのである。
  私自身が2年生を担任していたこともあって、1年生(45回生)には全く手がかりがなかった。来年の新入生勧誘活動を顧問一人でどうやってやるのか?考えるだけで気が重かったが、県内でも貴重な存在となりつつある山岳部を簡単に潰すわけにはいかない。そんな折り、山岳部の部室からテントやコンロなどの備品が盗まれているのが発覚した。部室のナンバーキーの番号を知っているのは限られたメンバーのはずだ。これを機に、私はOBとの関係も断絶し、私なりのやり方で新しい部を再建する決意を固めた。もちろん、部室のキーは新しいものに取り替えたが、使いものになる道具はほとんど残っていなかった。かくして、部員0、装備0、顧問2名のみの新生山岳部が出発したのである。
 
 来年(平成3年)の春が勝負、と考えていた私のもとへ、思いもかけぬメンバーが転がり込んでくることになった。44回生のY.Oを初めとする2年生数名が、「サイクリング同好会をつくりたいので顧問を引き受けてほしい。」と頼みに来たのだ。
 私に、ふとあるアイデアがひらめいた。それは、"GIVE & TAKE"という発想である。
「サイクリング同好会」などというより、「山岳部」として活動しないか?と私は彼らに勧めてみた。「山岳部」なら部室もある。使い残した今年度の予算もある。もちろん、活動の一環としてサイクリングをやればいい。この提案は、彼らにとっても「渡りに舟」ということになったらしい。部員が一挙に5、6名になった。早速予算でテントを買い、市ヶ原へキャンプに出かけた。一泊して寝食を共にする中で、絆も深まったようだ。「本命」のサイクリングの方は、一度北鈴蘭台から森林植物園経由で六甲山頂までツーリングに行っただけだった。けれども、部室という活動拠点ができたことに、彼らも満足してくれたようだ。このときの顔ぶれを思い起こしてみると、M.Gなど、なかなか一癖もふた癖もある個性的なメンバー揃いだ。このM.Gにはいろいろなエピソードがあるが、その一つを紹介すると、大学入試の日にテントを担いで行って、学内に泊まらせて下さいと係官に頼んだという。その返事がどうだったかは不明であるが。
 山岳部に革命的変化が起こったのは、翌年の新入生に対する部紹介の日である。部長のY.Oには、人を組織する不思議な魅力があったようだ。彼は、「山岳部は、サイクリングやキャンプやスキーもできる楽しいところだ。」とアピールしたらしい。部紹介の後、指定した教室は新入生(46回生)があふれかえらんばかりの盛況だった。25〜26名はいたようだ。その中には兵高史上初めて?の女子5〜6名も含まれたいた。
 
 かくして、平成3年度の新入生歓迎合宿は、20名を越えるメンバーで、住吉道から六甲山へ向けて出発した。もちろん、テントを初め装備類はまるで足りない。顧問の私物はもちろんのこと、同僚に借りたり、部員が自宅の物置に眠っていた一昔前の道具を引っぱり出して来たり、とにかくホームレスが集団で山に登るような騒ぎだった。その夜のミーティングの賑やかさは忘れられない。翌日の六甲山頂は雨に降られたが、アウトドアの楽しさを満喫して有馬温泉に下山した。
 だがこの大所帯は、所詮無理だった。ザックを初め、大部分が個人装備ということになると、経済的にしんどい子が出てくる。他の部へ移ったり、女子はマネージャーに引き抜かれたりで、ぽつり、ぽつりと数が欠けていった。その中で、本質的に野外活動が好きなメンバーが生き残って行くことになる。
 
 その年初めて実施した蛍合宿。6月末に京都の清滝へ出かけたのだが、もう一人の顧問が英語のH先生であった関係で、オーストラリアからの女子留学生S.Lも参加した。夜の帳がおり、あたりにホタルが飛び交いはじめ、初めてホタルを見る子も多く、感動的な時間を過ごした。だが、もっとショッキングな事件はこれからだった。S.Lが女子部員と一緒に水遊びがしたいといって外に出ていく。しばらくして、女子部員A.Kがテントに駆け込んできた。「S.Lったら、すっぽんぽんで泳いでる!」彼女は夜の闇にまぎれてヌーディストしていたらしい。オーストラリア人といっても中国系で、見かけは日本人と何ら変らない彼女が、やはり大陸系であることを証明したできごとだった。この夜遅くには土砂降りの雨が降り出し、ぼろテントから大量の洗礼を受けるおまけもあった。首筋から流れ込む水の中で寝たのは生れて初めてであった。
 
 平成2年、新生山岳部最初の夏合宿は、奈良県の大峰山系へ出かけることになった。ここまで残ったのは、男子10名(うち1名不参加)女子3名である。女子がいるので少しでも歩きやすい道をということで、最初は舗装道路を上がったのだが、途中の河原でH先生が川で背泳の練習をするというハプニングがあり、山道に入った。体力的に十分でない部員も多く、とりわけ女子にとっては酷しい道のりであったようだが、無事に弥山山頂のキャンプ場に到着した。山頂付近は濃いガスに覆われ展望は得られなかったが、少しは深山の雰囲気が味わえたように思う。翌日の下山は、困難を極めた。一度降りたはずの下山路の道標がどうしても見つからず、廃道を通っての強行下山となった。しかも、女子の1名は足に豆をこしらえて、大幅に遅れる始末だった。体力のあるメンバー(先発隊)が先に行って夕食の準備をする手はずになっていたのだが、先にキャンプ予定地の上北山温泉に着いたのは後発隊の方だった。なぜなら、後発隊は途中の林道で出会った4WD車にヒッチハイクしたからである。苦労はしたが、温泉に入れたことと、現地調達の豚汁が部員達の疲れた体をいやしてくれた。翌日は川遊びを思う存分楽しみ、帰路についた。
 
 男子部員達はたくましさを増した反面、女子部員は「しんどかった。」という印象が先にたったようで、秋からは活動に参加しなくなった。その後、女子部員はしばらくとだえることになる。秋山は、京都の北山へ出かけた。ここでも顧問の経験不足から来る判断ミスで、部員達に迷惑をかけることなる。部員の中での体力差がはっきりし始めたのがこの頃で、体力のない部員ほど練習嫌い、という傾向がますます両極化に拍車をかけ、このときも先発隊と後発隊に分かれた行動をとっていた。途中で先発隊が後発隊を待つために休憩したところ、後発隊はどうせまた遅れるからということで、ほとんど休憩せずに追い抜いて行った。その後を追うように出たわれわれ先発隊が、途中の分岐点で、顧問も部長も右へ行くものと直感的に思いこんでおり、何の疑いもなく右へ進んだのだが、正しいルートは左だったのだ。人家が見えるようになってからやっと間違えたことに気付いたが、もう薄暗くなっており、引き返すには時間がなさすぎた。やむを得ずとった窮余の策は、民家で電話を借りてタクシーを呼び今夜の幕営地に向かうことだった。そして、ようやく目的地に到着したとき、あたりは真っ暗だった。H先生には随分心配と迷惑をかけてしまった。にわか雨のふりしきる真っ暗な中、屋根付きの調理場ですき焼きをしたのだが、実はそのキャンプ場が、無料だが事前に使用許可のいる公営のキャンプ場であることを知らず、係員に大目玉をくらってしまった。言い訳になるが、地図にはキャンプ場としか書かれておらず、神戸市民にそれを知れというのは無理がある。 冬には、Y.O部長公約のスキー実習を六甲山人工スキー場で行なった。行うには行なったが、部員も顧問もコスト・パフォーマンスの点で物足りないものを感じたことは確かだ。 翌春、新生山岳部の始祖ともいうべき、Y.Oらが卒業していった。Y.Oは神戸大学に現役進学したが、やはり信州大学に進学した山岳部員N.Nとともに、大学を休学してヒッチハイクの世界一周旅行にチャレンジしたときく。猿岩石より3年も前の話である。
 Y.Oに代わって部長となったのは、46回生のY.Mである。彼はY.Oとは違った意味での明晰さと、アウトドア活動への適性を兼ね備えていた。副部長のT.Sとはなかなかの名コンビであり、この二人がリードすれば部の中に明るさが生れたものだ。ただし、そんな彼らも新入生獲得には失敗し、47回生の入部者は、当初R.K1名のみであった。後にM.Kが加わって2名になったものの、「奇数回生不作」の隔年現象は続くのである。
 
 前年度は高校総体には出場しなかった。アウトドアに競技性など必要ないと私は考えていたし、途中入部の3年生と1年生ばかりではとてもチームの組みようがなかったのも事実である。だがY.Mらは初の総体参加に意欲を見せていた。それならというわけで準備が始まったが、顧問自身が1回しか引率の経験がなく、審査項目や基準すらよく飲み込めていなかった。まさに手探りの状態で本番を迎えることになった。
 しかもこの年は、会場が氷ノ山であった。それまではずっと六甲・摩耶山系で行なわれていたのが、この年から隔年で会場が入れ替わることになったのだ。Y.M、T.Sの2名に、K.O、G.Tの4名がレギュラーであった。K.Oは、「中発隊」の元祖である。「中発隊」とは、先発隊についていく根性はないくせに、後発隊にはならないという変なプライドを持ち、いつも真ん中あたりをどっちつかずで歩いていることを指す。「ヤマノボラー」という語を初めて言い出したのも彼であった。K.O自身が「ヒヨドラー」(ひよどり台の住人で、いつも遅刻をバスのせいにする人種)であったことから創り出した新語であるが、現在では兵高山岳部の登録商標になっている。わがままなくせに、妙に憎めないところのある人物であった。G.Tは総体ではよく健闘してくれたのだが、その後部を辞めてしまったのは残念なことだった。総体の成績は31校中22位。満足とはとても言えなかったが、出発点を考えればいたしかたなかった。だが、もっと痛かったのは、折角生徒会の特別予算で買ってもらった新しいテントを、2日目の夜に襲った嵐でポールを真っ二つに折られてしまったことだ。なぜあんな強風の中で幕営を強行させたか、大会役員に後日文句を言っても、後の祭りだった。
 
 平成3年の夏合宿、部員達の力量も上がってきていたので、私は3000m級に挑戦させる決意を固めた。涸沢からL穂へ登り、岳沢へ下る。それが計画したルートである。不安要素は、明らかに体力的に劣る部員が3名含まれていることだ。実は、どうしても二隊に分裂する部員間の体力差を考慮して、私と長谷先生はアマチュア無線の免許を取得していた。先発隊と後発隊が、無線で絶えず連絡をとりあい、先発隊が荷物の面でカバーすれば何とかなるだろうと判断した。だが、その甘い判断をあざ笑うように、まず涸沢への登りでK.Hがダウンした。彼は「料理長」という称号を与えられるほど調理の面では抜群の力量を発揮した人物で、合宿には欠かせない人材である。だがいかんせん肥満体で体力に難点があった。結局、彼を空身で登らせ、荷物は戻って私が担ぎ上げた。
 そして翌日、今度はY.Hがバテた。ザイテングラードから雪渓にかかるあたりで、「暑い、暑い」と言い出す。他の者は涼しくて気持ちよがっているのに・・・どうも一種の脱水症状であったらしく、「水を飲んだら直りました。」と本人はあとでケロッとしていたが、こちらは「高山病か?」と心配したものだった。結局、Y.Hの荷物も私がピストンで担ぎ上げ、昼前にようやくL穂高岳の山頂に立った。このときのメンバーは、上述のY.M、T.S、K.O、K.H、Y.HにY.Tの6名、T.Iと1年のR.Kは不参加であった。R.Kは学習塾を優先したためにこの合宿に行けず、それが原因で3年で夏山参加という快挙?を成し遂げるのである。そのまま一気に岳沢へ下ってキャンプを張り、翌日上高地温泉ホテルで入浴して帰神した。部員達は、登頂の充実感のみならず、上高地の風情がいたって気に入ったようであった。
 
 その年の秋山合宿は比良山で行なった。このときはR.Kも参加した。少し雨に降られ、夕食はガタガタ震えながらであったが、昨年とはうってかわっておだやかな山行であった。
 
 冬のスキー合宿、私は1泊でびわこバレイに行くことを提案したが、参加希望者が少なく、断念した。これが実現するのは翌年のことになる。
 
 さて、翌春の新入生勧誘、相当力を入れて臨んだ結果、 当初7名ほどの新入部員を獲得した。ただし、うち2名は幽霊部員に終わってしまった。このときの新入部員はちょっとひと味違った印象を受けた。T.Yは、いかにも山岳部員という名前の持ち主であるが、ふつう下級生が上級生に対しては「〜さん」というところ、「〜君」と呼ぶところが変っていた。私は体育会的規律は嫌いなので、あえて注意するでもなかったが。このT.Yと、Y.Oが48回生の中心となって活動していくことになる。 
 さて、46回生が昨年の雪辱をかけて臨んだ高校総体。今度は摩耶山が会場であり、地の利もある。昨年のメンバーからG.Tが抜け、2年のR.Kが加わったが、彼はいきなり石油コンロの点火に失敗し、散々のデビュー戦となった。予算の関係で性能のよい石油コンロの買えなかったわがパーティーは、この面ではずっと苦戦続きだった。最近総体のルールから石油コンロの使用が削除され、喜んでいる。チームは健闘したが、順位は14位。昨年から見れば進歩のあとがうかがえたが、内心期待するものがあっただけに、残念だった。ともあれ、大きな足跡を刻んだ46回生もこれで引退となった。
 
中編

 47回生の新部長はR.Kが就任したが、彼の一番の売り物は体力であり、あとの細かい技術面は1年生に頼らざるを得なかった。有り難かったことは、先輩のご厚意で、武陽会からザック6本の寄贈を受けたことだ。生徒会予算が他校の山岳部の3分の1から4分の1しかもらえず、装備に金のかかることが部員の増加にブレーキをかけていたことは否めず、これは大きな力となった。他の装備も徐々に改善されてきており、個人装備に頼らずに合宿が組めるようになっていた。 

 '93の夏山は、1年生主体ということもあって、再び大峰山系へ向かうことにした。メンバーは2年2名(R.K、M.K)に1年3名(T.Y、Y.O、K.O)。コースも2年前と全く同じコース。ただし、今度こそは道に迷わず、藪こぎなしに下りることを目標にした。この年は全国的に天候不順で冷害の発生した年であったが、もともと雨の多い大峰地方が例外であるはずはなく、スタートから傘をさしての行進となった。さて、問題の3日目、下山道の分岐点を必死に探していると、足下の笹藪の中にほとんど埋もれていた道標が見つかった。上の樹に吊されていたものが落下したまま何年間も放置されていたらしい。道理で一昨年見つからなかったはずだ。それを元通り復元してやり、いそいそと下山した。途中、細かいハプニングがいくつかあったものの、無事に予定の上北山温泉に到着した。豚汁のメニューも一昨年通りだった。ただ部員達にとって可哀想だったのは、小雨の降り続く薄ら寒い天候で、川に入って泳ぐことができなかったことだ。 

 '93の秋山合宿は、上記のメンバーにS.K、K.Kを加え、滋賀県の霊山で行なった。K.Kには持病があり、体力的には決して恵まれているとは言い難かったが、自分の限界をよくわきまえて3年間頑張ってくれた。彼がいつも計画書の表紙に書いてくれた見事なイラストと、「コガる」という動詞ができたことは忘れないだろう。K.Oも存在感のある人物ではないが、すべての合宿に皆勤賞で通し、遅れながらも頑張り通した。46回生の3名にしてもそうだったが、彼ら二人のような、他の運動部では疎外されてしまうような者も包容しながらやってこれたことは、わが山岳部の誇りとしたい。この合宿は、水の確保にやや苦労したものの、天候に恵まれ順調に推移した。霊山山頂では、強風のため野外にテントを張ることを避け、避難小屋のお世話になった。背よりも高い笹藪を抜けて下山し、これで無事に日程終了と安心したのも束の間、油断したはずみに足を滑らせて川の中に転落するというおまけがついた。無線機は無事だった。 

 冬のスキー実習は再び六甲山人工スキー場へ。狭いゲレンデながら部員達はそこそこに腕を上げたが、R.K部長の、何度教えてもスキーを止めることのできない不器用さには空いた口がふさがらなかった。もっとも、そんな彼も直後の修学旅行ではちゃんと滑れるようになったそうだから、さすがプロのコーチ、餅は餅屋というところか。
 
 翌春、またもや新入生勧誘ははかばかしくなく、3名のみの入部。このうちの1名は2年の時不登校状態に陥って辞めてしまい、2名しか生き残らなかったのだが、2名とも無口で覇気がないように私には思われ、まさか彼らが2年後に総体で入賞するなど、考えもしなかった。
 
 新歓合宿は、岩梯子を抜け、(この岩梯子も震災で今はない)東お多福山から六甲山に向かい、土樋割峠の下で幕営した。夕食後に大きなイノシシが現れ、残飯をあさって去っていった。この夜、初めてツェルトというものを試してみたが、夜中に雨に降られ、天井が垂れ下がってくる恐怖に見舞われた。総体で携行を義務づけられている緊急避難用具がこれほどチャチなものであるとは・・・
 
 その年の夏山は槍ヶ岳へ向かった。2年ぶりの上高地である。1泊目、槍沢ロッジの手前で1年生のY.Nがダウンしかかったが何とか持ちこたえた。翌日の槍への登りはさすがにハードであった。途中で落石防止工事のため、停滞を余儀なくされたが、それが却っていい休憩であったかも知れない。槍ヶ岳山荘前で先発隊に昼食をとらせていると、後発隊も追いついてきた。後発隊の昼食を後回しにし、全員で槍の穂へ上がることにしたが、1年生の一人がどうしても行こうとしない。バテていたのか、それとも高所恐怖症か、この彼が2年後に副部長としてチームを引っ張り、総体初入賞に貢献すると誰が予測しただろうか。もっとも彼自身はこのとき登らなかったことを今でも後悔しているという。槍穂尾根を縦走し、南岳に到達した。着いた頃はそうでもなかったのに、夜にかけ猛烈な霧雨と強風に見舞われた。野外でガタガタ震えながらカレーを食った。翌日は天狗原を経て槍沢に戻る予定だったが、H先生から異論が出た。雨で岩が滑って危険だから、元の道を引き返そうというのだ。私にとってはこのパノラマコースが今回のハイライトでもあるので、この程度の小雨で断念はしたくなかった。結局強行するという判断を下した。天狗原への下りはそれほど危険とは思えなかった。結果オーライといわれるかも知れないが、行ってよかったと部員も私も思った。それくらい見事な槍の眺望であった。ただし、途中の雪渓でみな雪を食っていたのはいただけない。槍沢を経て、横尾に到着する寸前で凄まじい夕立が我々を襲った。傘やカッパを出す余裕もなく、あわてて横尾キャンプ場の軒下に駆け込んだ。その日は徳沢まで行って幕営。そこへOBのT.S(信州大学在学中)がかけつけてくれた。その夜、部員は「打ち上げ」を計画していたようだが、宴たけなわで顧問に見つかり、翌日のミーティングでも酷しい追求を受けることになった。本来計画には無関係なT.Sにもとばっちりが行くことになり後味はよくなかっが、、彼らも反省してくれたようだ。翌日は例によって温泉ホテルで入浴後帰神。
 
 この年の秋山は2年ぶりの比良であった。出発もしないうちからハプニングが起きた。2年のS.IとS.Kが集合場所のJR大阪駅に姿を見せないのだ。家に電話をすると、二人ともすでに出たという。集合場所の間違いかとも思い、駅構内をあちこち探したが見つからず、結局見切り発車。二人は何と遅れたのではなく、我々より先に入山していたのであった。比良駅到着後、部長T.Yと副部長Y.OをH先生とともに「遅れた」2名の確保のために残し、先に山へ向かった我々は、先行する2名を見つけて合流、事なきを得たのだが、残された2名+H先生は無線連絡が通じなかったこともあって結局ロープウェイとリフトで登ってくるはめになり、カンカンであった。ただし、残ったのがもしH先生でなく私だったら、たとえ遅れてもロープウェイなどは使わせなかったであろう。だから2名は幸運を喜ぶべきなのだ。その夜は何とか無事にすき焼きの鍋を囲むことができ、翌朝は小雨がパラついていたものの、武奈ヶ岳山頂をきわめた。金糞峠を経て下山した。
 
 その年の冬、センター試験の休みを利用して、待望の1泊スキー実習にチャレンジした。1泊といっても、宿に泊まる金はない。琵琶湖畔にテントを張り、翌日びわこバレイに上がるという計画で出かけたのだが、志賀駅に到着してみると、外は猛吹雪であった。われわれのテントは3シーズン用で、とても野外に張れる状況ではない。幸い、駅の待合室が随分広く、夜間駅員が引き揚げて無人になったので、そこにテントを張らしてもらう(実は勝手に張る)ことにした。さすがに屋内は暖かく、快眠がむさぼれた。翌朝、全員歩いてびわこバレイのゴンドラ乗り場へ向かい、スキー場へ登る。スキー実習は、「迷子事件」があったものの、六甲山人工でやることに比べれば金をかけた値打ちは十分あり、新雪滑りが楽しめたことはよしとせねばなるまい。。
 
 スキーから帰って成人の日からセンター試験休みに続く連休があり、問題の阪神大震災が来た。山岳部には直接の被害はなかったものの、学校は休校に続いて1年と2年が別々の間借り校舎に離ればなれ。合同の活動もままならない状態で翌平成7年春、山岳部は50回生を迎えた。当初、男子4名と女子6名くらいが入部の意向を示した。これは「女子山岳部」誕生か?とときめいたのも束の間、彼女らは親の反対にあったり、他の部に引き抜かれたりで、くしの歯がぬけるように去って行った。残ったのは「マネージャーもどき」が3名ほど。彼女らは蛍合宿に2名、秋山合宿に1名が参加したものの、夏山には参加できず、本格的な「山女」誕生はまたもやお預けとなった。肝心の男子の方はといえば、元陸上部で何やらオタクっぽいのが1名。こいつは一人になってもやりそうな奴だと頼もしい気がした反面、たくさんいる部員も一人にしてしまう奴ではないかという恐怖もあった。それが翌々年部長になったA.Dである。鈴西仮設校舎では、恵まれた自然条件を活かして「化石採集会」を一度行なった。新歓合宿は六甲山を予定していたが、台風のために流れるという異常事態。そして、6月になり、3年のみが本校に戻ることになる。顧問の2名が3年担任のため、1・2年との交流は絶たれ、一抹の不安がよぎったが、両校で授業のある講師のK先生(女性)が連絡役を引き受けてくれたので 無事に総体を迎えることができた。
 総体(氷ノ山)には、3年のT.Y、Y.O、D.Kに加えて、2年のH.Tをレギュラーに加えた。この年からエントリーが認められた補欠は2年のH.IとY.Nを予定していたが、Y.Nが不調のためリタイア、自ら志願してきたA.Dを参加させた。播但線の車中、メンバーがまともな地形図を持っていないことが判明し、急遽顧問だけ途中下車して遅れてくる予定のH先生に電話して梅田の紀伊国屋まで走ってもらうというウルトラCを成功させたのもむなしく、13位の結果となった。昨年より順位が上ということでは進歩とも言えるが・・・この時点では、翌年の大爆発は予測もできなかったことだ。 蛍合宿は久しぶりに女子2名(K.Y、A.W)を引き連れ、京都の清滝へ入った。今回は愛宕山へ登るというオプションがついたのはよかったが、登って100m行くか行かないかでダウンしたあの女子は一体何者だ。OBとして来てくれていたR.Kが、一足先に下りて、お守り役をしてくれたからよかったものの・・・。
 
 さて、その年の夏に山岳部最大のピンチとも言える「あの事件」が発生するのである。夏山は北八ヶ岳へ向かった。顧問も2度入山しており、それほどハードな行程もなく、まさかあのような激しいリタイアが出るとは予測もできなかった。強いて言えば、1日目の行程がきつめであったかも知れない。赤岳鉱泉を経て硫黄岳に登ったが、1年生のY.Yがその頃から靴が合わず、不調を訴えていた。夏沢峠に下りたところで、個人装備の水が尽き、山小屋の水(雨水)を買って飲んだのが第2の蹉跌であったかも知れない。本沢温泉にたどり着いたときには、かなり肉体的にも精神的にもヘバリがきていたようだ。その上彼は偏食で、夕食を十分口にせず、夜も熟睡できないと言う悪循環が重なって翌日の悲劇につながってゆく。日本第2の高所温泉も効き目がなかったのか・・・翌日、彼はH.E、H先生とともに先発隊からベタ遅れの状態だった。相変わらずマメだらけの足をひきずっている。その上、脱水気味なのも手伝ってニュウを越える頃にはグロッギー状態に陥っていた。もっとも適当なエスケープルートもなく、とりあえずゆっくりでも白駒池までは頑張ってもらわねばしかたがなかった。先発隊に遅れること4時間、夕食のカレーができあがった頃に、やっと後発隊が到着、Y.Yはバッタリ倒れて2度と起きあがることはなかった、は冗談にしても、もう彼の状態は疲労を通り越していた。39度の発熱。幸い顧問の救急箱に解熱剤があり、それで熱はやや下がったものの、合宿を続行するのは無理、顧問は決断を迫られた。決断とは救急車の要請である。白駒池から徒歩5分のところを車道が縦断していることは調べてあった。青苔荘の電話を借りて119番。Y.YはH顧問とともに佐久の市民病院へ向かった。あとのメンバーも相談の結果最短ルートで下山することに。双子池へ向かうプランはかくして崩れたが、これが2年後の合宿で達成すべき目標として残されたのである。Y.Yは入院がやや長引いたものの、両親とともに帰神し、その後も山岳部を続けることになったのは幸運だった。
 
 さてその秋、活動が鈍っていたところに朗報がもたらされた。H.EとY.Yは卓球部からの転身組であったのだが、卓球部からさらに2名、M.YとK.Iが転部してきたのである。卓球部には申し訳ないが、わが部にとってはこの2名は大きな戦力となり、翌々年の近畿大会出場を獲得するレギュラーに成長してくれた。戎ら以前にも、「元卓球部」の部員が伝統的に多く、(顧問もそうである)「脱ピン組」の愛称で呼ばれるようになった。さらに入学当初見学に来ていながら結局入部しなかったH.Hも加わった。彼も県総体6位入賞を達成したレギュラーに育った。平成7年の秋山は、この3名を加えて、伊吹山で行なうことになった。この山を選んだ理由は、女子部員を意識して、ハードでトイレの便も悪い深山を避けた意味である。1日目は1合目のスキー場下部で幕営し、2日目はサブ行動で山頂まで往復しようと言う計画である。女子部員はU.NがK顧問(女性)とともに参加した。天候に恵まれ、山頂では雪遊びのおまけまでついて快適な山行だった。
 
 冬のスキーは、再度びわこバレイにアタックした。ただし、昨年からの連チャンはH.Y1名のみである。雪も十分にあり、基本練習がしっかり行えた。
 
 '96春、震災の避難所を完全解消した学校に51回生が入学してきた。最終的に定着した部員は9名に達し、少なくとも部員数の面では、黄金時代を迎えたといえる。だが51回生は、まとまり・協調性と言った面にはやや欠けるきらいがあり、とりわけ総体レギュラーとそれ以外との意識的ギャップが大きかったように思う。 新歓合宿は摩耶山で行い、穂高湖に初めてゴムボートを持ち込んで水遊びをした。これ以来、「ボーター」という言葉が定着し、ボートを誰が担ぐかが部員達の間で恐れられるようになった。51回生には泳ぎの達者なメンバーが多く、普通なら敬遠するような水温でもスイスイ泳ぐのには感心した。ボートのオールを湖底に沈めてしまうというハプニングがあったが、「ハッシー」ことH.Hの活躍で拾い上げることができた。
 
 その年の総体は、3年ぶりで摩耶山に戻った。49回生は部長のH.Tと、副部長のH.Iしか生き残っておらず、レギュラーには当初A.DとK.Iを予定していたが、K.Iが発熱で急遽H.Hに入れ替えた。急造メンバーだったが、部員達はブレーンのH.Iを中心に予想以上の取り組みで準備をしており、私としては5位以内に入って近畿大会へ是非とも行きたかった。それは名誉のためではなく、装備費のためである。前述したが、兵校山岳部の生徒会予算は、他校に較べると3分の1程度でしかない。テント等まとまった装備を揃えるためには、近畿大会に出場してPTAや武陽会から特別補助を獲得する以外に方法がないのである。「賞状はいらん。だが金がほしい。」と私は部員達の目の前でもはっきり言った。この年の総体は猛暑・難コースで久しぶりに体力がものをいう大会となった。制限時間内に入った学校はわずかに5チーム。その中に本校も含まれていた。当然、二日目に期待がかかったが、閉会式場の登山研修所で発表された順位は6位。他校の顧問に「おめでとう。」と声をかけられたが、私は素直に喜ぶ気になれなかった。賞状など紙屑でしかない。部員達は確かによくやったし、初入賞の喜びが表情にあふれていた。。だが、部としてこれで満足するわけにはいかない。何とか新しいテントを獲得して大勢の部員でも快適な合宿ができる条件を整えたい。そう心に誓うのであった。

 蛍合宿は多紀アルプスへ向かった。柏原高の顧問から蛍がいるとの情報を受けていたことと、滋賀県方面にはやや食傷気味だったこともあった。OBも5名参加してくれ、篠山から火打岩へ入った。三嶽から峠鞍部の幕営地まではかつて来たコースであった。ホタルは・・・と言えば、林の中にかすかに光るヒメボタル、さらには・・・いた、いた、1匹のヘイケボタルがテントのそばの木にやって来た。これでもいないよりまし、ということで蛍合宿の名称はかろうじて裏切らず、顧問の面目は立ったのであった。ところが、面目が立たなかったのが翌日。多紀アルプスの岩場を縦走して黄金ヶ岳の山頂に立った所まではよかったが、篠目四十八滝に向かう道を間違え、ワンダリングしたあげく、ダム湖に出てしまった。まあ、予定していた川遊びは湖遊びに変わったが、迷子にならなかっただけ幸いと言うべきか。読図の大切さをあらためて思い知らされた。それにしてもダム湖を横断してスイスイ泳ぐ51回生達には感心した。入る部を間違えたのでは?
 
 その年の夏合宿は、少し趣を変えて、木曽御岳にチャレンジすることにした。前年、個人的に登ってまずまずの感触を得ていた。そのときは王滝口から登ったのだが、今回は開田高原からのルートをとることにした。まず、夜行急行のちくま号で木曽福島まで行き、駅前でテントを張って仮眠をとった後、バスで開田高原へ。ここで温泉につかってのんびりするつもりだったが、温泉までの道のりが片道45分と意外に遠く、つかった後にけっこう一汗かいてしまった。その帰り道くらいからパラパラと雨が落ち始め、夕食の頃には本降りになった。幸い、キャンプ場には屋根付きの調理場が備えられていたので、何とかボン汁(豚汁の豚の代わりにボンレスハムを使ったもの)を味わうことができた。翌朝には雨も上がり、御岳へ向かって出発した。前年は二の池の側にテントを張ったのだが、今年は四の池湿原の側に張ることにした。登りは後半斜度がきつくなって体力の劣る部員にはややハードだったようだが、登り一方でエネルギーのロスは少なく三の池の肩に到着した。昼食後一山越えて四の池に入り幕営。澄んだ水の流れる美しい湿原に一同感激。翌日、サブ行動で山頂へ向かう。この山は富士山と同じように巡礼の山になっており、白装束の一行に出会いながらコンクリートの階段を上って山頂に立った。そこが3000m超の場所であるとは感じないのが難点と言えば難点であるが・・・帰りは摩利支天の方を廻って幕営地へ向かったが、帰り着く間際に発生した思いがけないハプニング。五の池小屋の近くで、私と同年輩の男性に声をかけられた。
 「おたく、四の池にテントを張られたグループの方ですか?」
 「はい、そうですが。」
 「あそこは、保護地域でキャンプしてはいけないのをご存知ですか?」
 「いいえ。」
 「すぐに撤去して下さい。向こうにいるのが県の自然保護担当の方で大変怒っていられるので・・・」
 「わかりました、どうもすみません。」
 御岳一帯が県立公園であるのは知っていたが、昨年も幕営しているグループを見ていたので、「国立公園じゃないから大丈夫だろう。」と思いこんでいた。見つかったのがこの時間でよかった。もし、昨日のうちに見つかっていたら、どこでも幕営できずに山を下りねばならないところだった。雷雨の降りしきる中、外輪山伝いに下山を始めた。
 よくよく考えれば、この御岳には山頂付近にキャンプ場がなく、暗黙のうちに「幕営登山お断り」になっているようだ。幕営登山者が地元にお金を落とさないのは確かだが、それを排除しようとする姿勢はどうだろうか。あの尾瀬にもキャンプ場があるというのに・・・
 当初雨模様だった下山も、下りるうちに雨も上がり、予定の濁河温泉に到着した。幕営地へ行く前に、温泉につかり、2日ぶりにたまった垢を落とした。幕営地は10分ほど舗装道路を下ったところにあるスキー場であった。嬉しいことに、「キャンプファイアーをしてもよい。」と言ってくれた。生徒らは最後の夜をファイアーストームで過ごせることが嬉しかったらしく、いそいそと薪を集めて準備にかかった。このファイアーストームにはもう一つの大きな意味があった。それはこの合宿終了後、顧問のH先生が交換教員としてアメリカに1年間行ってしまう、そのお別れ会なのだった。とりわけ、50回生の部員達は、H先生と一緒に活動するのが最後になってしまう。巻上がる大きな炎の中で、一同はしみじみと感慨を共有したのである。
 こうして、最初で最後の御岳合宿は幕を閉じた。高体連の山岳部誌には嘘八百の活動記録を掲載せざるを得なかった。(その中では、山頂では幕営せずに行動したことになっている。)もっとも、この無法な幕営があればこそ成功した今回の合宿であった。湿原の自然をちょっぴり破壊したことは率直に反省しておきたい。   
 H先生がアメリカに行かれたことで、顧問が1名になってしまった。これでは活動に支障をきたすということで、臨時顧問として転任1年目のN先生をお迎えした。N先生は山に関してはベテランであり、いろいろな面心強かったのだが、残念なことに間もなく病気で入院され、実質的に活動に参加してもらえなかったのは残念である。
 
 最後の夏山は終えたものの、50回生にはまだ大きな目標が残った。それはもちろん翌年の総体で5位以内に入賞することである。49回生を中心に成し遂げた6位入賞は、近畿大会に行けない、すなわち実質的利益を伴わない「名誉賞」である。私はこの面では実利主義者であり、総体の最大の目的は、「活動費の獲得」にあると考えている。一片の表彰状のもつ意味は軽い。どうせ練習を頑張るのなら、何としても近畿大会に進出し、PTAや武陽会等から「参加補助」をいただき、涙が出るほど少ない部の予算の足しにしたい。これは「何もない状態」から部を再建してきた私でなければわからない「こだわり」かも知れない。
 
 部員たちにどれほどこの気持ちが伝わったのかはわからないが、この年の秋山合宿は、多少面白みを欠くのは承知の上で、翌年の総体会場である氷ノ山を選んだ。福定に幕営地を見つけ、暗闇の中のすき焼きパーティーとあいなった。うどんを用意させたのはいいが、重量を少しでも軽くしようと選んだ干しうどんを茹でずにそのまま鍋に入れたのは、さすがに食えたものではなかった。この種のミスはわが部にはつきものである。よその部のように定番メニューだけを守っていれば、総体でも減点されたりしないのだが、チャレンジ精神はしばしば死を招く。
 翌日は総体の予定コースを縦走しながら、読図を繰り返しつつ山頂を越えた。山頂の避難小屋では三田学園の山岳部(中・高)と出会う。中学生から鍛えれば立派な部になるだろうに。お天気もまずまずで氷ノ山国際スキー場へ下山した。わが部は、活動に顧問の自家用車を使うということができないため、何度も総体会場に下見に来ることができない。1回の下見で済まさなければならないのは辛いが、その分は周到な準備で補うよりないのが現状だ。部活に自家用車を使わないのは、というより自家用車というものを一切持たないのが私のポリシーであり、こればかりは部員に我慢してもらうよりない。確かに車があれば交通費や時間が節約でき、部の機動性は向上するだろうが、その分は部員と一緒に山を歩くことで補ってきたつもりである。今までこのことで部員に不満を言われたことはないが、もし他校に転勤して、顧問は車を使うのが当たり前のような雰囲気があれば、辞退するしかないであろう。不便を忍んで自然に優しく接するのが私の山の原点だから・・・ 
 わが部の歴史にまたもや汚点、というより失敗の教訓を残したのが、その冬のスキー合宿だった。びわこバレイの合宿は、一定の成果を上げていたため、私としては継続するつもりでいたところ、部員の方が別の所にしたいという。それならとあれこれ検討した結果、土地勘のある神鍋を選んだ。ただし、いつも問題になるのが費用面である。高体連山岳部では、例年ハチ高原で積雪期登山大会(実質はスキー実習)を行っており、民宿に3泊もしている。いくら新人戦扱いで交通費が半額生徒会から出るとはいえ、その経済的負担は父母にとって酷しいものがある。他校では、それに加えて春休みに信州方面へ春スキーに連れて行ったりしている。私の感覚からすれば、「よくそれで人が集まるなあ。」という印象だ。
 これまでの兵高山岳部では、1泊のスキー合宿さえ参加率が悪く、訊くと二言目には「親が金を出してくれない。」という返事が部員から返ってくる。この面では、兵高山岳部の家庭は経済的に恵まれていない場合が多かった。だから、私がスキー合宿を計画するに当たって最も留意してきたことは、「いかにして費用を安くあげるか。」ということである。だから、この年の神鍋スキー合宿も、民宿等は使わず、幕営することにした。もちろん、雪山で幕営するだけの装備はわが部にはない。そこで私の脳裏にひらめいたのは、かつて鈴蘭台高校時代に宿泊訓練(兵庫高校では野外活動にあたる)で利用した神鍋山のキャンプ場である。あそこなら冬季でも積雪はそれほどではなく。雪かきをすれば土の上にテントが張れる!食事はコンビニ利用で十分。ということを部員に提案したところ、さほどの異論もなく、(というより半ば強引に説得して)かなりの率で参加希望者が揃った。日高町役場と現地の民宿組合に連絡して、「冬だったら無料で使ってもよい。」という許可も得た。これがもしうまく行ったら、わが部の定番メニューとして確立できたかも知れない。だが、ボロは思わぬところから出た。前日の準備で、テントを持っていく係の者が、何とポールを携行するのを忘れたのである。「テントとボールは同じ者が持て。」というのを日頃徹底しているのに、別々の者に者に割り振り、ポール持ち係が当日病気欠席したために生じたミスだった。顧問の一人用テントを別にすると、まともに張れるテントは1組しかない。この一張りに9人も詰め込めるわけがない。そこで私が苦し紛れに放った起死回生の妙手とは?私が持って行った自分のスキー板をポール代わりにしてテントを吊し、その中に寝るというアイデアだった。部員達は最初半信半疑だったが、やってみると天井は低いながら、何とかテントらしきものが立ったではないか!そこへ何とか3名のメンバーを寝させ、風除けにかまくらを建設して幕営が成立した。さすがに仮設テントに寝た3名は寒かったようだが、凍死だけは避けられたことは感謝してもらわねばなるまい。かくして1日目はアップ神鍋、2日目は万場高原で無事スキー実習が行えた。やれやれ!貸しスキーを借りた名色ホテルのご主人は、親切にもお風呂まで入れてくれた。感謝感激。
 
 その春には49回生を送り出した。入部者3名、そのうち1名は途中退学と、数の上では恵まれなかった学年だったが、「山椒は小粒でピリリと辛く」立派な成果を残してくれた。なお、「部長は必ず国公立大学に現役合格する」というジンクスはこの年途切れたが、副部長のH.Iは、香川大学の医学部に見事推薦入学し、「OB会顧問ドクター」の誕生を期待させてくれることになった。兵高山岳部での経験が、名医を目指す彼の支えとなれば幸いである。 

後編

 '97年の春。兵高山岳部はまた大きなエポックを迎えることになった。「本格的な」女子部員4名を迎えることになったのだ。女子部員がいるといないでは、部のムード、というより根本的体質までもがまるで違ってしまうということは、他校の部を見ていてもわかる。女子部員が恒常的に存在する長田高校、柏原高校は、総体でも常に優勝候補に挙げられるのみならず、日常活動も活発である。それに比し、伝統的に女子部員を受け入れない神戸高校は、どんどん部員が減少し、存亡の憂き目にある。山岳部に限ったことではないが、21世紀は男女が共同参画して行動することが求められる時代とも言える。  N.Kは、その小柄な風貌に似合わず、誕生プレゼントに登山ナイフを買ってもらったというエピソードがあるくらい、筋金入りの山女である。M.Fも、山では決して音を上げない根性娘。N.Sは、ちょっと、いや大分変わり者であるが、ヤマノボラーとしてはむしろこれが普通なのかも知れないと思える。C.Kは他の3名より遅れて入部したのだけれど、楽天的で山向きの性格の子であると感じた。  そして、男子部員ももちろん忘れてはいけない。K.Sは、「卒業後も山を続けることのできる山好き」という概念に初めて当てはまった男であった。M.Kもなかなかスケールの大きな人物で、わが山岳部ではタブーとされていた「フリークライミング」にチャレンジするようになる。もっとも、私が転出した後のことであるが。だが、元気が余りすぎて「ハンドボールと兼部」まで行ってしまったのは誤算だった。いくら兼部を認めているとは言っても、それは文化部の話で、運動部二つは、顧問の例を見てもわかるように、どこかで無理が生じる。A.Kは、生徒会役員もやるなど、バイタリティに富んだ人物だった。K.Kは、体力的にはやや難があるものの、山の感動を素直に表現してくれ、顧問としても連れて行き甲斐のある人物だった。T.Eは遅れ入部組だが、朴訥ながら団体行動に適した人物である。  そして、もう一つ特筆すべきことは、高体連山岳部委員長のS先生が兵高に転任してこられたことである。もちろん、高体連山岳部の事務局も一緒にやって来るので、「余分な仕事が増えるんじゃないか」という不安半分、「総体対策の貴重なアドバイスがもらえる」期待が半分であった。もちろん、彼は山岳部顧問に名を連ねるとともに、兵高のI校長が高体連山岳部長に就任した。山岳部長なんて単なる名誉職、と思ったのは大間違いで、I校長が部長になったことは、わが山岳部に様々なよい効果をもたらすことになっていく。  この豊富な人材を得て、意気揚々と新年度の活動が始まった。新歓合宿はいつもとは逆に裏六甲の有馬口に集合、逢山峡から極楽茶屋、六甲山頂を経て、住吉谷で幕営するコース。幕営地では、楽しみにしていたキャンプファイヤーは強風でできなかったものの、たまたま下山中の外国人グループと出会って意気投合し、一緒に撮影した写真は「90周年記念誌」の一頁を飾ることになった。帰りは芦屋ロックガーデン上の横池へ回り、ボート遊びも楽しめた。ボーター(ボート運び人)を勤めてくれた新入生のM.Kには感謝、である。 
 いよいよ問題の総体が迫ってきた。一つ誤算が生じた。レギュラーに予定していた50回生H.Hが、学習面の不安からメンバーに加わることが難しくなったのだ。知識が豊富で、ムードメーカーの彼を欠くのは大きな痛手だった。50回生には交代できる力量の者がおらず、51回生のT.Fを急遽レギュラーに加えた。総体2週間前には、直前現地合宿を計画していた。私は前日に豊岡で生物学会の大会があり、(「兵庫生物」編集部のため出席しないわけにはいかない)その足で八鹿に向かうというハードスケジュールだった。現地ではたまたま長田高校のメンバーと一緒になり、S先生ともども、長田の顧問には随分お世話になってしまった。長田高校の強さの秘密、みたいなものを少しは学び取れた気がした。翌日は予定コースを入念に下見しながら縦走した。  今まで数々のドラマを生んできた氷ノ山だったが、今度こそは決着つけてやるぞ、という気持ち。特別に学校に申請して、直前の「校内合宿」を認めてもらった、とそこまではよかった。プールの南側の空き地にテントを張り、そこで模擬調理実習をした後、朝はまた総体を模した撤収・設営訓練をやるつもりでいた。あくまで本番を想定しているので顧問はテントには寝ず、生物準備室で一夜を過ごすことに。震災の避難所勤務以来の泊まり込みだった。48回生OBのY.Oもわざわざ訪ねてきてくれた。と、そこへ部長A.Dがやって来た。  「先生、メンバーが模擬試験が近いから家へ帰って勉強したいと言っています。明日の朝また出て来るということじゃいけませんか。」私は思わずがっくりときた。顧問がいきっている程には部員達は本気になっていない・・・何のために教頭に直談判して許可をとったのか・・・そのとき、例の須磨の生首事件が起きたばかりであり、ビビッていたわけではあるまいが・・・「試験のため」と言われれば結局帰宅を許可せざるをえず、初の校内合宿は事実上お流れになった。これで本当に大丈夫なのか、と一抹の不安がよぎったのは事実である。  
 そして氷ノ山へ向かう日が来た。50回生の3名に加え、51回生レギュラーのT.Fはもちろん連れて行くに決まっているが、「応援に行きたい。」という部員が51回生、52回生含めて結構集まったのは将来に向けての手応えだった。レギュラー+補欠2名以外の旅費は自己負担なのにもかかわらず。(この補欠2名を登録メンバーに加えてもらったのは、私が顧問会議でお願いしたことがきっかけであり、生徒会から旅費が出ることで随分助かった)今年から八鹿からの貸切バスで現地に入り、1日目の宿泊地であるいつもの駐車場に入った。  この日は幕営、炊事審査。テントの使い方で、審査員からクレームがついたという情報が伝わってきた。テントに初めからついている通気口をどうするか、というような些細なことであった。まさに「言いがかり」としか思えない。われわれのような実績のない高校には、審査委員の一部はいつも「嫌がらせ」をする。われわれが今回使用しているテントは、最新仕様のもので、これまでどこの部も使ったことのない構造を持っていた。説明書通りに使っているのに、従来のテントの使い方と違うからと言って、減点しようするやり方は許せなかった。後日顧問会議で抗議はしたものの、出鼻をくじかれたのは間違いなかった。  知識、天気図などは無難に終えたようだった。練習量から言って完璧は期せないものの、わが校としてはまあ上々か。  翌朝、3時起床で始まった。6時に本隊が出発した後、7時に私達は補欠。応援メンバーとともにオープン隊として出発。オープン隊は本隊を追い越したり、接近したりしてはいけないことになっている。本隊には必ずバテて遅れている学校があり、それを待ちながらの縦走である。この縦走の唯一の楽しみは戸言えば、「筍取り」。チシマザサの筍がちょうどこの時期旬なのだ。これは持って帰ってカレーの具になるのだ。「筍カレー」意外にいけるものである。コースタイムの倍くらいかかって氷ノ山国際スキー場に下山した。  それにしても、気になるのは得点と順位。「M.Yが歩行技術審査のとき、審査員の目の前で滑って転んだ。」というニュースが伝わってきた。いかにも彼らしいドジで、苦笑する他なかった。笑い事では済まない、1点減点は確実だ。筍を茹でながらも心に浮かんでくるのは「またダメか・・・」という悲観的観測。今までやって来たことは一体何だったんだ・・・
 だが、その心配も長くは続かなかった。S先生を通じて審査結果が非公式ながら伝わってきたのだ。「兵庫高校は4位」。長田、三原、柏原の3校にはまだまだ歯が立たない印象があった。それで4位というのは予想した最高順位ではないか。部員達は期待に応えて頑張ってくれた。あまりのスロースターターぶりには正直言ってイライラしたけれども・・・・  表彰式。草原をバックに晴れ晴れした顔のレギュラー部員達。同行した応援部員たちも嬉しそうだ。部員0から再出発して8年。ここまで来れるなんて誰が想像したろう。山には素人の私だが、部員の力を信頼してきてよかった。スパルタ式の教練でなく、自発的なやる気を尊重してきたからこそ値打ちがある、と感じた。  近畿大会進出を決めた50回生たちは、近畿大会本番(兵庫県が当番県で、同じ氷ノ山である)を後輩達に譲って勇退した。もし氷ノ山でなかったら頑張って残ったのに、と部長のA.D。安心して受験勉強に打ち込んでほしいと思った。もっともそのうちの一人K.Iは、翌月囲碁部のメンバーとして全国大会に進出し、東京に行くという偉業まで達成してしまう。  
 蛍合宿は、ちょっと時期が遅めになり、夏休みに入ってすぐに実施することになった。それというのも、7月初めにH先生が帰国するのを待ってから、と考えたからである。そして、場所は初めて丹生山系を選んだ。神鉄沿線からはとても行きやすい。神鉄六甲駅から出発し、天下辻から鰻ノ手池、志久峠を経由して幕営予定地の中山大杣池に入った。ここでまたボートを膨らませる。これくらい広い池だと、ボートも持ってき甲斐がある。もう時期的に遅くホタルは無理だと思っていたら、夕闇とともにどこからともなく飛んできてくれたのには感激した。H先生とも思い出話に花が咲き、その夜は更けた。翌日は稚児ヶ墓山→帝釈山→丹生山と縦走して箕谷へ抜け、無事合宿を終えた。  
 さて、夏合宿はあるプランを思い描いていた。それは50回生で苦渋をなめた八ヶ岳である。元々、この山域は結構距離は遠いのに、夜行バス料金が非常に安く、経費を節約できるというメリットを持っている。その理由もさることながら、私としては2年前に途中中断せざるをえなかった双子池までのコースを完結してみたかったのである。1年生(52回生)が元気者揃いなので、今度こそは事故なしに乗り切れる自信があった。引率は本来ならS先生かN先生が同行してくれるはずだったが、体調その他の理由で参加できず、特別に現在「顧問ではない」H先生にお願いすることになった。私としてもそれは望むところだった。さらに、48回生副部長のY.Oが同行してくれることになった。これも心強い限りである。  そして、7月31日の夜、梅田駅前から夜行バスで出発。翌8月1日朝、美濃戸口に降り立ったところからリベンジの旅は始まった。その日は無理をせず赤岳鉱泉に一泊。前回は本沢温泉まで入ってバテた部員がいたことを考慮しての軌道修正だった。ただし、時間は有り余るほどあり、私はオプションメニューを加えていた。それは「サブ行動で赤岳(八ヶ岳最高峰)までの往復」である。希望者だけを募ってのものである。これで体力差を調節できると考えたのだ。希望に応じたのは、男子の主力部隊と、女子のN.K。あとのメンバーはテントでゆっくりするなり、温泉に入るなりして過ごさせる。もちろん、夕食の支度は彼らが中心になってやる。  赤岳は多少険しい岩場もあるが、選抜隊のサブ行動であるため、スムーズに進んだ。ただし、山頂ではガスって展望は得られなかった。以前に個人で来たときもガスっていたので、残念に思った。帰りに気に入らない行動を一部部員が取った。途中の山小屋で休憩を入れたとき、「特別割引」の看板につられてメシを食ったのである。食事の準備をして待ってくれている部員達のためにも、そういう勝手な行動は控えてほしいものだと思った。51回生にはどうもそういう自己中心的傾向があり、それからも私を悩ませることになる。  翌日は峠を越えて本沢温泉に入った。二晩続けて温泉に入れるなんて、贅沢な山行だ。だが、女子部員に何とか機嫌良く残ってもらえるためには、有力なアピール手段でもある。本沢温泉のあの地下深く降りてゆくような風呂に入るのも、もうこれで3回目なのだった。灯りもろくにないあの暗い浴槽は、まことに「秘湯」のムードを漂わせる。  今回こそはトラブルなしに乗り切れるぞ、と思ったのも束の間、白駒池までの縦走コースで、またもや事件が発生する。女子部員の一人が、気分が悪い、と言い出した。問いただしてみると、どうも原因は、荷物として持たされた食料のうち、「干し椎茸」を行動食代わりにかじっていたことにあるらしい。そんな思いもつかないことをしてくれるのは誰か、ここまでの記述で当てられることと思う。  例によって先発隊と後発隊に分け、彼女のペースを遅らせることで何とか致命傷にならずに済んだ。2年前は、高熱を発したY.Yを、H先生がエスコートしてみんなの倍くらい時間をかけて白駒池へ到着させてくれた。あのときの苦労をあらためて思った。女の子なら俺が背負ってやる、といいたいところだが、空身ならともかく、50sを超える重い荷物を背負いきる自信は私にはない。  白駒池に着き、夕食準備にかかろうとしたところで、またもや小事件発生。その日のメニューは「にゅうめん(温かいそうめん)」だったのだが、食料買い出し係の51回生副部長のM.Hが、そうめんの具を何も買っていなかったのだ。これに対し、私は一計を案じた。近くの山小屋(青苔荘)、ここはY.Y事件のときお世話になった場所でもあるが、ここの売店で酒の肴として売られていた「でんぶ」を買ってきたのだ。これと誰かさんの食べ残しの椎茸を具にしてにゅうめんを作った。なかなか部員達には好評だった。椎茸娘の体調も回復し、穏やかに夜が更けた。  次の日、いよいよ双子池に向かうことになる。麦草峠を抜けたところで、部隊を二つに分けることにする。体力に余裕のある方は茶臼山から縞枯山へ。残りは「雨池」を経る平地コース。雨池のロマンチックなコースの方が女の子向きだから、と配慮したのだが、そちらへ回された一部男子部員は不満だったようだ。脚がつったりしていた子が回復できるようにと考えたのだが、プライドというのは難しいものだ。体力差をどう調整するかは、わが部においては古くて新しい難問だった。よその部がしているように、一番体力のない部員にすべて合わせる、という行き方は私は取らなかった。そのやり方にもそろそろ総括が出ようとしている。  山コースの方は、意外に展望もきかず、つまらないコースだった。私単独なら、絶対雨池コースを選んだだろう。きれいな写真も撮れるし・・・・これまでの合宿では、写真撮影はすべてH先生に任せてきた。もし、私が写真撮影に夢中になってしまうと、部隊全体の行動に絶対影響が出る。それを恐れてのことである。  そして、ついに憧れの双子池に到着した。キャンプ地は静かな樹林の中にあった。白駒池がどちらかというと騒々しい場所であったのに対し、対照的に落ち着いた所だ。さて、ここで水の大好きな面々は当然のことながら、池で泳ぎたがった。彼らのみならず、私まで一泳ぎしたいくらい開放的になっていた。ただし、水温は高くない。推定20度以下であろう。寒中水泳まではいかないにしても、夏の海かプールでしか泳いだことのない私には初体験と言ってよい。最初こそ冷たかったが、水のかけ合いなどしているうちに気にならなくなった。最初に決断できなかった面々はいつまでも岸辺でニヤニヤ笑っているばかりだ。女子の一人も思いきって水に入った。ちゃんと水着を持ってくるように指示していたのに、入ったのは結局半分にもならなかったが、楽しいひとときだった。  その夜のミーティングは、しんみりとした雰囲気にさせられた。「今夜、みんなにお別れの言葉を言わせてほしい。」とH先生に言われていたからだ。いつもは私が最後に締める感想を、彼に譲った。彼は涙をにじませながらも淡々と語った。  「みんなとも長いことつき合ってきたけど、僕はこの合宿で、顧問を辞めることになった。・・・・・・・一番今回の合宿で印象に残ったのは、先発隊と後発隊が当たり前だった合宿を、初めてみんな一緒に行動できたこと。これが当たり前だと思うし、これからも続けて欲しい。」  思えば、彼には常に「後発隊隊長」を任せ、苦労をかけてきた。その想い出がこのとき彼の脳裏を駆け巡ったのかも知れなかった。彼にはずっと一緒に顧問を続けてほしかったが、交換教員派遣中に入っていただいた先生方を優先しなくてはならないという辛い思いもあったろう。いくら部員が増えているとは言っても、顧問4人体制を実現できる自信は私にもなかった。  また、言い訳にはなるが今回全員一体行動がとれたのは、私がペースを落としたからではない。オプション行動や2コース制で体力差調整をはかったことと、何よりも本来なら遅れ気味になる女子部員や体力の劣る男子部員が、「ついて行く」という気持ちで頑張ってくれたからである。はっきり言うが、数年前の部員には、「みんなに合わせる」気持ちなんてこれっぽっちもなかった。日頃からトレーニングをサボった上に、こちらが普段より遙かにペースを落としているのに、「ついて行けばペースを上げられる」恐怖からか、初めから遅れるつもりで行動していたように思う。速い者が遅い者に合わせるだけでなく、遅い者も速い者に合わせる、それで初めて部全体の調和がとれる。そこまで部の進化が進んでいたのである。  彼の涙の意味は十分にくみ取りつつも、現在の部の到達点は大事にしなければ、と考えていた。そう、私自身にももう残された時間は多くないことは薄々感じ始めていた。私も兵庫高校へ来て十年目、そろそろ「決断」が必要な時期に来ていたのだ。  翌日は蓼科山を右手に眺めながらの下山を楽しんだ。親湯に付いたのは午前9時。13時半のバス発までは有り余るくらい時間がある。予定通り親湯ホテルで温泉につかることに。51回生を先に風呂に行かせたのだが、1時間以上経つのになかなか帰ってこない。荷物の番があるので、こちらは待つしかないのだが、と様子を見に行かせると、ゲームコーナーで遊んでいた。どうしてこうにも自分勝手な行動がとれるのか、怒った意味が彼らに通じたかどうか・・・  風呂に入った後、私は併設のプールに入った。プールと言っても、自然の川水を利用しているので、水温は低い。ところが、このプールに「自然の滝」がある。その滝に頭から打たれながら、合掌し、瞑想にふけっていると、部員達はプールの外からまるで妖怪を見るような目で眺めている。  「モルはやっぱり化け物だ。あんな冷たい水に長時間打たれて平気なんて・・・・」  実はこれには種明かしがある。滝から落ちているのは、実は水でなく、「ぬるま湯」なのである。平気なのは当たり前・・・だが、恐れをなした部員達は誰一人としてプールには入って来なかった。  かくして兵高最後の夏合宿も幕を閉じた。もっとも、この時点では必ずしも「最後」とは意識していなかったけれど・・・
 9月に入って早々、氷ノ山で近畿大会があった。わが部は、51回生T.F、R.H、52回生K.S、M.Kの新チームで臨んだ。違う学年を混合してチーム編成するのは、世代交代がうまく行きやすく、これからも採用したいと思っていた。  結果は2グループに分けた中の5位(実質10位)。本来は表彰状は出ないのだが、本大会の実行委員長であるI校長は、特別に賞状を用意してくれた。これで兵庫高校内での山岳部の地位はさらに向上する。兵高山岳部は昨年度、今年度、そしてさらに来年度、再来年度と4年続けて入賞して総体ポイントを獲得するのだが、兵高にはそんな部は他にはない。大幅予算アップと本来なるところが実際はならなかった。生徒会会計との折衝で、決して会計係は首をタテに振らなかったという。生徒の自治と言いながら、実際は生徒会顧問が影で糸を引いている。この野郎といつも歯がみしていたが、どうにもならなかった。もっとも、近畿大会出場で武陽会からは参加援助をいただき、爪に火を灯すような運営は少しでも潤った。感謝しておきたい。   
 秋山は「S.I、S.K」事件以来の比良山を選んだ。女子のトイレの便を考え、ロープウェーの山上駅経由コース。もちろん、ロープウェーには乗らない。引率は結局私一人ということになった。S先生は同じ日に高体連山岳部の合同登山大会が淡路島の譲葉山系で行われるということでそちらへ。私が向こうへ乗らなかったのは、譲葉山が標高も低くて面白くなさそうなのと、高体連の顧問連中とはどうもソリが合わないからだった。お天気にも恵まれ、キャンプ地の八雲ヶ原に到着した。ここで私は思いがけない先生に会ってしまう。西播の某高校のT先生である。顧問連中とソリが合わないといったが、T先生こそ、その中でも一番いい印象を持っていない人だったのだ。顧問会議で口論になったこともある。かつての総体、48回生の部員達が、装備審査で出せと言われた物がなかなか取り出せなくて苦労していると、「もういい!」と罵倒されたと憤慨していたその審査員である。ところが、話を聞くと、T先生も向こうが面白くなさそうなのでこちらへ来たと言われる。思わぬところで話が合ってしまった。彼にはテントに招かれお酒をごちそうになり、よもやま話で意気投合してしてしまった。人間、一対一でつき合わないとわからないもんだなあ、と思った。  さて、その夜の夕食はT.F新部長考案の「班方式」。全体をいくつかの班に分け、班毎に献立を自由に考えるというもの。私は炊き込みご飯と豚汁の班に入ったのだが、鍋物の班も美味しそうだった。あたりが暗くなり、さあ、そろそろ寝ようかと準備し始めると、何やら山の方が騒がしい。ここはスキー場の一角なのだが、そのゲレンデの方でふざけて盛り上がっている連中がいるようだ。どうも聞き慣れた声は、51回生の部員達である。まあ、まだ時刻も早い、しばらくすればおさまるだろうとほうっておいた。あくまで「自重自治」を優先したつもりでいたのだが、30分経ち、1時間経ってもおさまるどころか、どんどんやかましくなっていく。私はT先生のことをまず考えた。さっきようやく関係改善したばかりなのに、また兵高に対するマイナスイメージを植え付けてしまう。私はテントを出た。やむを得ず叱りつけて連中をテントに戻した。どうも新部長はこの自堕落な雰囲気を抑え切れていないようだ。一人一人を取ってみると善良な人間ばかりなのに、部員が多すぎるのと、仲が良すぎるが原因なのかも、と思った。  翌日、武奈ヶ岳山頂を征服して、金糞峠から下山した。下の売店で売っている柿をご馳走するのもいつものパターン。道を歩くときのマナーが悪いのでまた注意。どうにもこの人たちは・・・52回生に悪い影響がなければよいが・・・・
 その冬のスキー合宿は、再び神鍋を提案した。何と言っても、安上がりなのが魅力である。ところが、またもや部員達は素直に従わなかった。テント泊まりはもう嫌だ、民宿に泊まりたい、というのである。参加できる者がそれによって減るというようなことは彼らの念頭にない。まあ、去年世話にもなったし、ということで、名色ホテルに予約を入れる。だが、天は味方しなかった。前日になっても積雪0cm。心を残しながらもキャンセル。
 年が明け、私の転勤がほぼ確実になってきた。転勤先は流動的なものの、校長はほぼ動かす気でいる。もっとも、希望を出したのはこちらであるし、今更後にも引けなかった。そんなときに、「お別れ」の意味を兼ねて「春山日帰り山行」を提案した。行き先は大阪の金剛山系。なぜここにしたかというと、翌年の近畿大会会場になることが決まっていたからだ。総体も終わらぬうちからもう近畿に行く気でいる。それくらい私も部員も自信ができていた。  3月18日、よいお天気に恵まれ、うららかな日だった。久しぶりに登った金剛山は、びっくりするくらい各種施設がきれいになっていた。山頂近くの公園でのんびりと春の陽射しを満喫した。本当に楽すぎる、楽しすぎるハイキング。近畿大会の下見なんてどこかへ飛んでしまっていた。  下山の途中で簡単なミーティングをもち、私の転勤予定を伝えた。涙は湧いてこなかった。今まで何度か別れを体験したけれど、涙がこぼれたことは一度もない。卒業式も離任式も、そして彼女との別れも、すべて笑顔で過ごしてきた。今回もそのつもりだった。
 阪神養護学校に転勤内示を受け、山岳部も去ることが正式に決まった。その後、何度か山岳部の行事には参加させてもらったが、私なきあとの活動について語ることはこの文章の趣旨ではない。諸行無常、後は野となれ山となれ、でも、かつて苦楽をともにした部員達とは、いつかまた登ってみたい。下界でやるOB会なんてつまらない。しみじみと想い出の語れるOB会は、やはりどこかの山の上と決めている。(完)
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